INTERPRETATION

ボストンマラソン

木内 裕也

Written from the mitten

 今年もボストンマラソンに参加してきました。4月の第3月曜日がマラソンの日。例年通り、ランナーとしてではなく、赤十字の医療チームとしての参加です。毎年数万人の登録ランナーと、それと同じ位の数のランナー(公式な参加ではなく、趣味がてら走る人々)がボストン市内のゴールをめがけて走ります。私は現地に2日前に入りました。ボストンへは通訳などの仕事で年に6回は少なくても向うのですが、いつも仕事でなかなか友人とあったりする機会がありません。今回はマラソン当日以外の予定は何もありませんでしたから、ボストンに住んでいた当時の友人と食事に行ったりすることができました。

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 マラソンの当日は朝の6時に集合です。写真はその朝の会議の様子です。ボストン郊外にある集合場所で、医療チームと無線チームが落ち合います。42キロのコースには20を超える医療テントが設けられ、それぞれに番号がついています。私のテントはStation 6。私を含め5名の医療スタッフと、3名の無線スタッフが割り当てられました。無線スタッフは救急車を要請したり、テントとテントの間で処置の必要な場合に医療スタッフと現場に向って逐一テントと連絡を取り続ける役目を果たします。

 2004年のマラソンは気温が非常に上がり、脱水症状になる人が後を立ちませんでした。その翌年は前年の教訓を踏まえてたくさんの水を飲んだランナーが、逆に血を薄めてしまってテントに担ぎ込まれることが発生しました。今年も同じような通達があり、血の中の塩分が低下してしまうことによる危険性が強調されていました。

 今年のマラソンのコンディションは決して悪くはなかったと思いますが、医療テントは大盛況でした。レースが始まって早い段階で1人のランナーがふくらはぎの痛みを理由にテントを訪れ、そこでリタイアしたのを決めました。Station 6は11マイル(レースの折り返し地点の少し前)でしたから、いつもはそれほどリタイアする選手は多くありません。しかしそれを皮切りに、10名近くのランナーが私のいたテントでリタイアを決めました。また喘息持ちのランナーはテントに入るなり「息ができない」と訴え、意識を失いかけました。すでに携帯用の吸入器を5回も使用したと言うことでした。すぐに酸素を与え、血中酸素は90%台前半を低迷しました。マラソンは市街地を閉鎖して行うので、救急車を要請してもすぐには来ません。従ってテントで働く救命スタッフは、患者の容態が30分後にどうなるかを考えて救急車の要請を考える必要があります。今回のランナーはどう考えてもテントでできる処置で容態が好転するとは考えられなかったため、すぐに救急車を要請しました。それでも、救急車が現地に到着できたのは45分後。その間、2人の救命スタッフが付きっ切りで対応しました。それでも他のランナーはどんどんとテントに入ってきます。救急車が到着する数分前には、この喘息持ちのランナーに加えて、7名のランナーがリタイアを決めてテント内で治療を受けていました。

 例年通り多くのランナーが途中棄権したり、救急車で病院に運ばれたりしましたが、最終的には大きな事故もなかったようです。私の友人もミシガンから数名参加していましたが、皆無事にゴールにたどり着いたとのこと。来年の参加がまた楽しみです。

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木内 裕也

フリーランス会議・放送通訳者。長野オリンピックでの語学ボランティア経験をきっかけに通訳者を目指す。大学2年次に同時通訳デビュー、卒業後はフリーランス会議・放送通訳者として活躍。上智大学にて通訳講座の教鞭を執った後、ミシガン州立大学(MSU)にて研究の傍らMSU学部レベルの授業を担当、2009年5月に博士号を取得。翻訳書籍に、「24時間全部幸福にしよう」、「今日を始める160の名言」、「組織を救うモティベイター・マネジメント」、「マイ・ドリーム- バラク・オバマ自伝」がある。アメリカサッカープロリーグ審判員、救急救命士資格保持。

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