INTERPRETATION

第361回 好奇心さえあれば

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

前にも書いたことがあるのですが、私は通訳デビューした直後、今でも忘れられない経験をしたことがあります。それは「ドタキャン未遂」です。

安定した会社員生活に別れを告げ、フリーランスで本格的に生きて行こうと私は決断をしました。そして100社ほどの通訳エージェントに履歴書をひたすら送る生活をしていたのです。その中でようやくご縁があった会社からお仕事を依頼され始めた時期のことでした。

その時に依頼されたのは、私にとって難易度の高い技術系の通訳案件でした。それなりに予習はしました。単語帳も作り、参考文献も読みました。けれども本番の前日、どうしようもない不安に駆られたのです。いてもたってもいられず、私は真夜中にそのエージェントに電話をかけました。「やはり私には無理です。降ろさせてください。」そう言おうと思っていました。

ところが時間が時間でしたので、オフィスには誰もおらず、呼出音は鳴り続けるばかり。仕方なく私はあきらめ、翌日、暗い気持ちのまま現地に向かったのでした。

結果的には私の不安も杞憂に終わりました。仕事からの帰路、「やはり断らないで良かった。もしそのようなことをしていたら信頼はガタ落ちになったはず。そんなことをしてしまったら、夢にまで見た通訳者の世界に私は二度と入れないだろう」と痛感したのでした。

あの体験があったからなのでしょう。通訳の勉強に日々取り組む際、私は「好奇心」をキーワードに進めることにしました。何事に対しても関心を抱くこと。面白いと思う心を持とうと決めたのです。そうして学び続けて行けば、きっと将来、どのような内容の依頼を受けても食わず嫌いにならずお引き受けできると思ったのです。

気になる本は手に取って読む、面白そうな記事を見つけたらスクラップする、知らないことは人に聞く、という具合に、「わあ、楽しそう!」「へえ~」という気持ちを大事にするようになりました。

その一環として、日常生活で出会う様々な事柄もすべて自分の学びにつながると信じています。たとえば先日のこと。電車に乗った際、警告表示に目をやりました。ちなみに私は電車内の広告なども勉強道具と思っています。

注目した警告表示文は緊急停止ボタンの横に書かれていました。英語で”If the button is pushed, the train stops”とあったのです。「ボタンを押すと電車が止まります」という意味です。

この文章をもっとシンプルにして、真剣さ溢れる(?)文章に書き換えるとしたら、自分ならどうするか考えてみたのです。と言いますのも、受け身の文章が何となく気になったからです。あれこれ考えながら行き着いたのが次の文章です:

Press button to stop the train

さあ、この後はインターネットで検索です。自分の作った文章が英語圏でも通用するか調べるのですね。同様のボタンをグーグルで画像検索し、英語圏の鉄道会社に絞り込んでみたところ、いくつか見つかりました。

たとえばロンドンの地下鉄の場合、Emergency Train Stopと大きいフォントで書かれています。箱型の停止ボタンで、蓋を開けて作動させる仕組みのものです。先の文の真下にはOpen door and press button to stop trainと出ていました。trainの前に定冠詞がないのも特徴です。

さらにその下の行にはYou are being filmedとあります。不適切な使用をけん制する上で、監視カメラが作動していることを知らせているのがわかります。

このようにして、表示文を自分の英語学習の道具にするのも、私にとっては楽しい作業なのですね。勉強というよりも、娯楽になりつつあります。

他にも電車内ではキャッチコピーを英訳したり、週刊誌に出ている見出しの数字を英訳したりすることもあります。頭の中だけでなく、こっそりと口パクで唱えることも少なくありません。勉強というのは何も教室に限ったことでもなく、教師や仲間、テキストなどがなくても意外と工夫次第で何とかなるというのが私の持論です。まだまだ私自身、試行錯誤をしていますが、あくまでも好奇心さえあれば日々を楽しく過ごせる。そのことを幸せに思います。

(2018年7月23日)

【今週の一冊】

「大人の語彙力ノート」 齋藤孝著、SBクリエイティブ、2017年

通訳の仕事をしていると、どれだけ豊富な語彙を持っているかでアウトプットにも多くの差が出ることを痛感します。特に放送通訳の場合、いつも同じ語句ばかりを使っていると、視聴者にとっては稚拙に聞こえかねません。たとえば私がよく言いがちなのが「~ということです」「とても」「さて」などの連呼です。自分では「あ、さっきもこの言葉、使ったっけ。何か別の語に言い換えねば」とは思っています。けれども同時通訳をしていると、そこまでバリエーションに気を配る余裕がありません。いつもオンエア後に反省ばかりしています。

そのような私がとても重宝しているのが類語辞典や表現辞典です。言い換えをできればできるほど、そしてそれを同時通訳の瞬間に口から出せるほど、自分としても満足度の高いパフォーマンスができます。そのためにも日々の努力が欠かせないのですね。そうした方にぜひお勧めしたいのが本書「大人の語彙力ノート」です。

著者の齋藤孝先生は日本語関連の書籍の他、ビジネス書や文学、スポーツ、身体論など多様な本を出しておられます。昨年発売されたこの本は日常生活でつい使いがちな表現を、いかに洗練された言い回しにするかが事例として豊富に載っています。

たとえば「考えます」もたくさんの同類表現があります。「考慮する」「考察する」「知恵を絞る」などはその一例です。「当日は都合がつきません」も「残念ながら」「運悪く」「折悪しく」など、実は結構あるのですよね。このようにして眺めてみると、日本語は実に豊富な言語であることを改めて感じます。

ところで本書に出ていた「ご査収ください」という表現。これには私自身、赤面するような思い出があります。社会人1年目のとき、配属先の営業部で他社へ資料をお送りしたときのこと。送り状に「ご査証ください」と書いてしまったのです。そう、査証はビザのことですよね。自分では「難しい用語が使えた。よーし!」と大得意になっていたのですが、ポストに入れてからふと思い出して恥ずかしくなった次第です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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