INTERPRETATION

第357回 どこでも準備

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳者というのは、業務を依頼された時点で一斉に準備を始めます。当日まで間があろうがなかろうが、とにかくひたすら勉強を続けるというのがこの仕事の特徴です。できる限りのことをギリギリまでする。それが当日の通訳パフォーマンスに直結するからです。「何が飛び出すかわからないからこそ、万全を期して臨みたい」「お客様に喜んでいただけるような通訳をしたい」というのが通訳者共通の願いです。

誰にとっても一日は24時間です。ゆえに、限られた時間内でどのように集中するかも考えなければなりません。中学高校のような「試験範囲」もありません。「ここまで予習したから、この通訳はバッチリ行くはず!」とはならないのですね。極端に言えば、「今まで生きてきた中で自分自身が吸収したことすべてが問われる」のです。

たとえば先日のこと。私はスロベニア関連の通訳業務に携わりました。私にとっての「スロベニア」というのは「メラニア・トランプ大統領夫人の出身国」という知識だけです。首都名も知らず、スロベニアの文化も宗教も言語もまったく未知のものでした。「自分は何をしらないのか?」を自問自答し、そこから準備は出発するのです。

今の時代であれば、おそらく誰もが「まずはインターネットで検索」となるでしょう。私もその一人です。ネットさえあれば大量の情報を入手できます。私が通訳者デビューをした時代はインターネットがありませんでしたので、自分で図書館へ出向いたり、関係者に話を聞いたり、あるいは書籍を買ったりする以外、方法はありませんでした。「自分の足で情報を獲得しに行く」というのが主流だったのです。

今回のスロベニア通訳の準備で、私はノートに調べるべき課題をひたすら書き出しました。最近はマインドマップを用いていますので、ノートの中央に「スロベニア」と記し、そこから線を広げて「文化」「政治」「宗教」「地理」などと書き出していきます。思いつくことをすべてこの段階で書き出していくのです。まさに連想ゲームです。

なお、概要をまずは把握する上で私が重宝するのは外務省の「国・地域」ページです。ここには国別に基本情報や日本との関係が簡潔にまとめられています。概要を知るうえでとても便利です。同様に「世界年鑑」(共同通信社)もコンパクトな記述ですので、こちらを図書館でコピーすることもあります。

こうしてある程度資料をそろえたら、あとは読み込み作業となります。本番までの準備時間を意識しながら、ひたすら読むのみです。キーワードに印をつける、単語リストを作成するなどもこの段階で行います。ただ、資料をそろえすぎてしまうと読む時間が足りなくなります。よって取捨選択も大切です。

資料の予習でもう一つ大事なこと。それは「集中力」です。私にとっての理想は「いつでもどこでも集中できること」なのですが、やはり人間ですので体調の波や周囲の環境もあります。いつ何時でも周りに左右されずに集中というわけにいかないのが悩みどころです。

そこでお勧めしたいのが「集中できる時間帯」「場所」を自分なりに編み出しておくこと。私の場合、イヤホンを付けるだけで仕事モードになります。また、勉強しやすいカフェや図書館などもいくつか決めています。電車内も座れさえすれば比較的集中できるようになりました。車内ではクリップボードがあると、安定して書く作業ができます。

過日、ヘンリー王子ご成婚のテレビ通訳を担当したときのこと。別の仕事の間に10分ほどの隙間時間があったため、行きつけのカフェへ向かいました。ところが満席!仕方なく駅へ戻り、「台がある場所」を探したところ、駅スタンプ用の台を発見!「10分だけ拝借いたします~」と内心思いつつ、資料を広げて読み込み作業をしたのでした。通訳者というのは、こうして「どこでもドア」ならぬ「どこでも準備」状態になるようです。スタンプ台を前に資料を口パクで音読する姿は、さぞ怪しく映ったことでしょう。

(2018年6月11日)

【今週の一冊】

「ゴッホ 旅とレシピ」 林綾野著、講談社、2010年

先日、大学の授業でゴッホに関する教材を取り上げました。学生たちへの課題は「ゴッホに関する書籍を読む」というものです。今やゴッホ関連本は画集にとどまらず、弟テオとの手紙を分析する本やゴッホの作品のなぞ解きをするといった書籍も発行されています。せっかくですので、私も何か新しいアプローチからとらえたゴッホ本を探してみました。そこで見つかったのが今回ご紹介する一冊です。

著者の林綾野さんはキュレーターが本職で、ご専門は「アーティストと食の関係」です。本書はゴッホの作品に描かれている食材を使ったレシピが紹介されています。また、ゴッホが旅したフランスやイギリスなどのメニューを知ることもできます。

たとえば鮮やかなイエローがキャンバスいっぱいに広がる作品「黄色い紙の上の燻製ニシン」の隣ページには、「ニシンの燻製、マリネ仕立て」の写真が掲載されており、本の後ろに詳しいレシピがあります。一方、1889年にゴッホがアルルで描いた「タマネギの皿のある静物」。この作品をヒントに紹介されているレシピは「タマネギのスープ」です。いずれのレシピもシンプルなもので、すぐに作れそうです。

ゴッホは素直で何事にも真剣であったような印象を私は抱きます。今風に言えば「不器用な生き方」をせざるを得なかったのかもしれません。ゆえにわずか37歳で自らの命を絶ってしまったのでしょう。

先日、アメリカの人気シェフ、アンソニー・ボーデインさんが亡くなりました。CNNの看板番組を担当していたボーデインさんの早すぎる自死は、多くの人々に衝撃を与えています。食を人々に身近に感じさせる、そんな天才的な才能を持ったボーデインさん。彼とゴッホの生涯は、ある意味で共通点が見いだせるような気が私はしています。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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