INTERPRETATION

第354回 原稿?万能ではありません

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳の仕事というのは事前の準備がすべてです。業務を依頼された時点で仕事は始まります。たとえ当日まで数か月・数週間あったとしてもです。頭の中はその業務のキーワードを常に掲げ、関連する情報を手に入れながら日々を過ごすことになります。当日まで緊張感が続くことになるのですが、逆に私にとってはそれが心地よいのですね。限られた時間でどれだけ勉強をし尽くせるか、どれぐらい内容を自分の血肉にできるかを考えながら当日を迎えます。

満を持してその日となればベストです。ただし、いつもそうとは言えません。他の用事で思ったより準備ができなかったり、途中で息切れしてしまったりということもあります。それでも準備は準備です。泣いても笑っても通訳当日は来るのですよね。

運が良ければ直前に話者の読み原稿をいただけることもあります。これは本当にありがたいです。大きな会議の際、登壇者もぎりぎりまで演説原稿を練るものです。それを通訳者にお分けいただければ、私たちも準備ができます。たとえ開始数分前でも、参考になるものがあることは、より良いパフォーマンスにつなげられるのです。

私もこれまでそのような恩恵にあずかったことがあります。「英文の演説原稿は一切ありません」と事前に言われて覚悟を決めていたところ、「完成しました!」と通訳ブースに届けられたこともありました。しかも主催者の計らいで和訳も付けて手渡されたこともあったのです。これには感動します。誰もが忙しい中、より良い会議にしていこうという思いを皆が心に抱き、尽力してくださっているのですよね。

こうして英文と和訳が届けられた際、開始時間までの集中力がものを言います。まずは原文と日本語を突き合わせながら確認します。私が意識するのは「音読」です。他に通訳者がいる際には配慮して声こそ出しませんが、口パクで読むようにしています。まずは英文を1文読み、それに相当する和訳を読む。読みづらい日本語にはフリガナをつけ、発音に自信がなければ電子辞書に搭載されているアクセント辞典で確認です。たとえばキリスト教用語に「御名」「贖罪」などがありますが、読み間違える可能性があれば、「みな」「しょくざい」とカナを振るのです。さらに「み」「しょくざい」という具合に、アクセントを置く箇所をマークします。「知っている単語」が必ずしも「声に出せる単語」とは限らないのですね。神経を使います。

ここまで準備できれば、あとは本番を待つのみです。ご本人がこの原稿に沿ってお話しなさることを願うばかりです。ところがところが、スクリプトから外れることも少なくありません。開始直後は原稿通りであるものの、途中から即興で話すこともあり得るのです。実際私自身、それを何度も経験しました。「よーし、いただいた日本語和訳を丁寧に読んでいこう」と張り切っていても、演説途中から「え?今、原稿のどこ?違うこと言ってる!もしかしてアドリブになった?」となるのですね。

このようなときに大事なのは、とにかく慌てないこと。堂々と日本語訳原稿を読んできた分、心が焦れば声も上ずります。テンポも崩れてしまうのです。けれどもそれをマイク越しにお客様に感じさせないのもプロとして求められます。アドリブ時にはまずイヤホンから入ってくる英語音声に集中し、同時通訳に専念することなのです。焦る心をおさえて最善を尽くすべく同時通訳を行う。それと同時に、ご本人が原稿に戻ってくる可能性に備えて目は原稿を追っていくのです。演説者の表情を見つつ、耳で英語の演説を聞き、口からは日本語を同時通訳をしつつ、時折、目を原稿にやり確認する。そのようなことをブースで行います。つまり、「原稿=万能」ではないのです。

わずか10分15分の演説であっても、このような状況下に置かれると、心も体も相当緊張してきます。座り仕事ではあるものの、終了時にはグッタリです。私など、フルマラソンを走ったかのような(実際、走ったことはないのですが!)気分に襲われます。ゆえに、通訳者の「次の業務」は体のメンテナンス。行きつけの鍼灸サロンへ駈け込んでは、じっくりとほぐしていただいています。特に首、肩甲骨、背中、鎖骨、こめかみと頭の筋肉はガチガチになりますので、緩ませなければなりません。心身のケアも仕事の一部です。

(2018年5月21日)

【今週の一冊】

“London’s Secret Tubes” Andrew Emmerson, Tony Beard著、Capital Transport Publishing, 2007年

2月にロンドンへ出かけました。折しも現地は数十年ぶりの大雪!八甲田山の小説のごとく、雪中行軍に勤しんだ旅となりました。しかも観光オフシーズンにも関わらず、市内は旅行客であふれていましたね。どこへ行っても人、人、人でした。

人混みが苦手な私にとって、観光名所めぐりは今一つ気乗りしません。はるばる日本から出かけたのですから、知的好奇心を満たせることがしたいと思いました。偶然見つけたのが、ロンドン交通博物館が主催していたウォーキングツアー。テムズ川南部にあるClapham South駅の地下トンネルを歩くというものでした。

実はロンドン市内には戦時中、防空壕として使われたシェルターがいくつか残されています。Clapham Southもその一つ。階段を180段降りると、8本のシェルターがあります。戦時中の話をガイドさんから聞きながら歩くツアーは実に興味深かったですね。避難所としてだけでなく、戦後はカリブ海からの移民受け入れ施設に、そしてロンドン博覧会が行われた際には旅行客の宿泊所にもなったそうです。

今回ご紹介するのは、このような地下シェルターに関する一冊です。本書は総括的なもので写真も説明も豊富。巻末索引も充実しており、図鑑として活用できます。ロンドンには他にも連合軍が司令部として使ったシェルターや、BBCが戦時中の放送中断を避けるために造った地下施設もあります。第二次世界大戦について地下シェルターという観点から知ることのできる興味深い一冊です。

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柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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