INTERPRETATION

第353回 理念を頭に入れる

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

BBCで放送通訳を始めたころ、クリケットのワールドカップがありました。当時はインターネットもさほど普及しておらず、日本語で用語やルールを調べようにも難しい状況だったのです。そもそものルールがわからない中、同時通訳をせねばなりません。ずいぶん難儀しましたね。

そのときとった方法は、いわば「力技」です。対戦チームの勝敗だけ把握しておき、あとは優勝インタビューであれば勝者の喜びを念頭にそれらしく、敗者インタビューは負けて悔しいという思いを頭の中に描きながら通訳しました。あとは聞こえてくる単語と単語をつなぎ合わせて、何とか辻褄を合わせていたのです。今にして思うと冷や汗ものです。

とは言え、この方法が完全に間違いとは思いません。なぜなら通訳者は「話者の立場」を把握したうえで訳さねばならないからです。アメリカ大統領選で候補者を応援する人のインタビューの場合、共和党か民主党かを押さえたうえで訳す必要があります。環境問題しかり、紛争の和平交渉しかりです。「この人はどちら側の意見なのか?」を番組内で瞬時に把握していくのです。画面に出てくる名前と肩書、プレゼンターの紹介文などが頼りです。

立場さえつかめれば、あとはそれに大きく反れないことを念頭にすれば、聞き取り自体に集中できます。「この人のめざすところはどこか」をとらえることが大事なのです。

これは通訳に限らず、仕事全般において大切だと私は感じます。たとえば教育者の場合、目の前の生徒に何を教えたいかだけでなく、クラスや学年の目標を常に意識すれば、日々の授業に反映できます。さらに現在の学校目標や建学の精神、学是など、大きな視点に立つことで、どういった生徒を卒業させ、社会に送り出すかも見えてくるでしょう。

さらに鳥瞰図的にとらえれば、日本がどのような次世代を輩出し、国を支える人づくりにするかも考える必要があります。もっと広げれば、東南アジア、アジア太平洋、地球規模でどのような人が社会を支えるべきかとらえるべきです。「そのために自分は今、目の前の生徒たちに教えているのだ」ととらえれば、教える仕事も非常に責任重大であり、やりがいのあるものと改めて気づけるでしょう。

会社も同じです。日々の仕事が辛くなったら、所属チームや部の目標を見直したり、企業理念を確認したりすることで方向が見えてきます。会社のモットー、業界の目標、日本国内における位置づけ、世界にその業種がどのように貢献できるかを考えるのです。

このような視点に立つことができれば、自分がたとえ巨大組織の歯車のように思えたとしても、自身の仕事に大きな意味と意義が見いだせるはずです。自分が組織を、そして社会を支えているのだというプライドは人を前進させてくれます。

ずいぶん前に私は非常に難しい学術会議の通訳を仰せつかったことがあります。専門家の方々ばかりが参加するセミナーで、予習量が膨大でした。「これほどの専門用語は日常生活でお目見えしないのに」と、その難解さに音を上げたほどです。けれども自分が通訳をすることにより、その分野の学説は国際的に共有されることになります。そして専門家同士が交流を図れるのです。それがいずれは一般市民に還元されるのですよね。そう考えると、自分も微力ながら社会の一部を支えていると思えます。

近視眼に陥りそうな時ほど、理念を見直してみることが大切です。

(2018年5月14日)

【今週の一冊】

“Made in North Korea: Graphics From Everyday Life in the DPRK” Nicholas Bonner著、Phaidon、2017年

2月にロンドンへ出かけました。オフシーズンなのに街中は人だらけ。人気の博物館も人混みが予想されました。そこで穴場ギャラリーを探したところ、キングス・クロス北側の再開発地域にあるミュージアムを発見しました。House of Illustrationです。

そのとき開催されていたのが”Made in North Korea: Everyday graphics from the DPRK”です。北朝鮮のポスターやパッケージデザインなどのオリジナルが多数展示されていました。なかなかお目にかかれないアイテムばかりです。

展示会ではプロパガンダ・ポスターだけでなく、漫画やコンサートのパンフレット、機内グッズなども見られました。雰囲気としては昭和時代の日本という感じです。デザインはとても精巧で、芸術的にも味わい深いものでした。

今回ご紹介するのは、その展示会の内容がすべて網羅された一冊です。著者のBonner氏はイギリス出身。景観設計を専攻し、中国建築に魅了されて中国へと渡ります。そこで友人と北朝鮮向けの旅行会社を興したそうです。その後、シェフィールド大学での指導ポジションをオファーされたものの断り現在に至る、と前書きには書かれていました。

本書をめくると北朝鮮のデザインがオールカラーで味わえます。南北首脳会談も開催され、米朝首脳会談への期待も高まる今、政治とは別に一般の人々の生活を垣間見られる「デザイン」に注目するのもお勧めです。

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柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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