INTERPRETATION

第338回 割り切りも必要

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

長年使っていたデスクトップPCが、どうにもこうにもならなくなりました。具体的には「反応が極端に遅い」という点が一番の懸案でした。メール一通を開くのに1分以上もかかることさえあったのです。ワードで原稿を書いていても、なかなか変換されず、保存にも時間がかかり、このままでは仕事に支障が出てしまうという段階にまで来ていました。昨年秋のことです。

それでも私にとって、新たに買い直すことは非常にハードルが高く感じられました。仕様も異なるでしょうし、新しいWindowsというのは、これまでも買い替えのたびに慣れるまで時間がかかっていました。その移行期間における心身の疲労(?)が私にはもったいなく思えてしまったのです。慣れるのに貴重な自分のエネルギーを費やすぐらいなら、現行の遅さで不自由しても構わないとさえ思っていました。フリーズしたわけでもなかったからです。

しかし、そうも言っていられなくなりました。ますます動作不安定に陥っていたのです。このままでは考えられる最悪のシナリオとして「完全にダウン。現在進行中の仕事や各種データなどがすべて消えてしまう」というものでした。そこで、年末のある日。思い切って近くの家電店へとりあえず見に行きました。

それまではデスクトップPCを使っていました。私はいまだにスマートフォンも持たず、ノートPCもiPadも持っていません。その理由は、「出先ではとにかく自由でいたい。束縛されたくない」という思いがあったからです。もちろん、そうしたグッズを持っていても自己コントロールをできる方は大勢いると思います。けれども私は、ことデジタル機器との付き合い方において自分を信用できないのですね。いったんそうしたアイテムを手にしてしまうと、出先でも電車内でもメールやネットが気になってしまうタイプであると自覚しています。だからこそ、あえて距離をとる方が私には合っていると思い、デスクトップPCだけでここまでやってきたのでした。

久しぶりに足を運んだ量販店には最新機種がたくさん並んでおり、目を見張るような技術的進歩がどの商品にも見られました。しかもスペックは飛躍的な向上です。そう考えれば、今の価格はお手頃ということになります。やはりここまで来たからには、思い切って買い替えて仕事環境を良くすべきなのだと思いました。データの移行や新しい仕様への慣れというのはプロの手を借りたり時間をそれなりにかけたりすれば解決する課題です。そのような思いが自分の中で湧き上がってきました。

帰宅後、家族に相談すると、「せっかく買うのだからもう少しいろいろとお店を回って比較したら?」との意見が出ました。確かにそれも一理あります。せっかく買うわけですし、しかも今後数年間は愛用していくものです。不十分な下調べのままで買うのももったいない。その気持ちもわかります。

しかし、年が明けた1月3日。私は思い切って先の量販店にまた足を運びました。「よし、もう今日ここで買ってしまおう。さもないとあれこれ迷い始めて結局買わずじまいになる。そして『あ~、PCの反応が遅い~』と低周波のイライラと共存する羽目になってしまう」と思ったのです。その場で即決で購入しました。

データ移行は古いPCをお店に持ち込めばやっていただけるとのこと。幸いその週はレギュラーで携わっている原稿執筆もなかったため、自分専用のPCがなくても何とかなります。数日後にはデータ移行済みの新しいノートPCが自宅へやって来ました。そして今、新しいPCでこれを書いているところです。

検討から購入までのあまりの速さに家族はあきれ顔で、「まさに脊髄反応!」とからかわれたほどです。けれども私としては良かったと思っています。今回の体験を通じて思ったのは、PCの買い替え自体、私が想像していたよりはるかにハードルが低かったことでした。たとえて言うならば、旅先でレンタカーを借りるような感じかもしれません。「自宅の車と少し違うけれど、自分が必要とする機能を最低限使いこなせれば良し」ということだったのですよね。そう思うと、あそこまで数か月間、さんざん悩んで買おうか買うまいかと思っていた時間そのものの方がもったいなかったように感じられます。

快適に仕事をするための道具なのです。その道具をめぐり、お金と時間を出し惜しみしては、仕事面で自分の力を発揮しづらくなります。だからこそ、思い切りと割り切りと行動が必要なのだと感じた今年のお正月でした。

・・・それにしても「脊髄反応」というのは言いえて妙だと思いましたが、考えてみれば、これぞquick responseですよね。

(2018年1月15日)

【今週の一冊】

「ロゴライフ 有名ロゴ100の変遷」 「ロン・ファン・デル・フルーフト著、グラフィック社、2014年

私は街中を歩いている時、視界に入る景色を眺めるのが好きです。その時の気分に応じてテーマを決め、集中的にそればかりを見ることがあります。たとえば、雲の形ばかり眺めることもあれば、家の表札だけに焦点をあてることもあります。お店の看板や道路標識など、自分なりに絞り込んでみると楽しめるのですね。携帯音楽プレーヤーやスマートフォンがなくても、エンジョイできるのです。

今回ご紹介する一冊は、企業ロゴばかりを集めた本です。日本企業だけでなく、世界中の会社名やブランド名が本書には紹介されています。それぞれのロゴがどのような経緯でデザインの変更をしてきたかが一目でわかります。

著者のロン・ファン・デル・フルーフト氏はオランダを拠点とするクリエイティブディレクターです。私も幼少期、オランダに住んでいたため、本書に出ているオランダの店名など懐かしく読むことができました。たとえば、ファストファッションの先駆けとも言えるのがオランダのC&Aという店舗です。こちらは1970年代にずいぶんオランダでも人気でしたが、そのロゴもマイナーチェンジをしつつ、今の形に落ち着いていることがわかります。

他にもキヤノン、ニコン、資生堂やJALなどのロゴもあります。マイクロソフトやアルファロメオ、ボルボなど、今や日本でおなじみのデザインも紹介されています。こうしてページをめくってみると、企業ロゴにも会社側やデザイナーの熱い思いが込められていることがわかります。消費者として何となく素通りしてしまうには、あまりにももったいない!ロゴが醸し出す芸術的な「美」をこれからはもっと味わいたい。そんな思いを抱くことができる一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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