INTERPRETATION

第330回 思考停止 言訳無用

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

まるで漢文調のタイトルとなりました。今回は私の失敗談です。

先日のこと。日米首脳会談後の共同記者会見通訳を某テレビ局で担当する機会がありました。予習段階では当日出てきそうな話題を調べ上げ、用語は何度も口に出すことでスムーズな訳出になるよう練習しました。自分としては万全を期したつもりだったのです。当日は少し早めに現地入り。案内されたブースに着席し、マイクチェックが終わればあとは実際の記者会見を待つのみです。緊張感は高まっていましたが、なんとしても視聴者に聞き易い訳出をしようと思い、待機しました。

会見で最初に発言したのは安倍総理でした。ただ、予想以上に音が聞きづらく思えました。映像はきちんと届いていたにも関わらず、です。普段私は英語音声の音量を大きめにしており、それを左耳から聞いています。右耳のヘッドホンはあえてずらし、自分の日本語を右耳から入れるようにするのです。そうすることで、日本語訳の「てにをは」が整合性をとれるよう意識しています。

数分後、アメリカ大統領の発言になりました。いよいよ通訳スタートですが、やはり音量は変わりません。内心「うーん、困った。聞き取れないわけではないけれど、日頃慣れている音量ではない。どうしよう」と思いました。それでも与えられた環境でベストを尽くすしかありません。聞き取れないとしても、文脈や映像上のボディーランゲージなどで判断しながら訳を付けるのみです。ボリュームつまみを上げても改善されず、普段以上に緊張しながらの訳出となりました。

5分経過後、パートナー通訳者と交代しました。隣には音声技術の方がいらしたのですが、私が通訳し辛そうにしていたのを見て下さっており、機材のボタンを調整し、音量を上げて下さいました。その時点で少しは音も大きくなりました。けれども、まだまだ私にとっては物足りません。そこで手元のボリュームボタンをさらにひねると、今度は音が割れる状況に。そうこうしているうちに、また自分の担当時間です。「とにもかくにも、今、目の前に集中して最大限の力を出すのみ」と言い聞かせて何とか会見は終わりました。

終了後、技術の方が「もしかしたら」とのことでヘッドホンを隣のものと交換しておられました。その時点で私はハッと気付いたのです。そう、隣の席には予備のヘッドホンがあったのでした。本番中の私はそれがまったく目に入らず、「聞こえない!でもベストを尽くそう!」と思い込んでいたのでした。完全な「思考停止状態」です。

我に返った私は非常にその日のパフォーマンスを悔やみました。なぜ冷静に隣の机に目を向けて予備のヘッドホンと素早く交換しなかったのか、と。取り換えることより「何とかして聞き取らねば」という強迫観念に押されて、落ち着いて行動することを忘れてしまったのです。

けれども過ぎてしまったことは仕方ありません。プロとして報酬を頂く以上、大変な環境下でも最善を尽くすというのは、どの仕事にも言えます。「音量がイマイチだったからうまくできなかった」というのは言い訳になりません。

デビュー直後の私であれば、しばらく立ち直れない打撃だったでしょう。けれども長年この仕事をしていると、落ち込んだだけでは一歩も進めないことを実感しています。あとは失敗から教訓を編み出し、次につなげるのみです。私は帰路の車内で「なぜそうなったか?」「次回、同じ状況に陥ったらどう行動するか?」をひたすらノートに書き出し、家に向かったのでした。

(2017年11月13日)

【今週の一冊】

「イギリスの水辺都市再生 ウォーターフロントの環境デザイン」 樋口正一郎著、鹿島出版会、2010年

先日、所用でイギリスへ出かけました。幼少期と大学院、そしてBBC時代にロンドンで暮らした私にとって、イギリスは第二の故郷です。美しい街並み、自動音声がほとんどない静かな環境を十分満喫できました。

飛行機がヒースローに到着したのは午後の早い時間帯で、テムズ川河口から西へと着陸態勢に入る機内からロンドンの街並みが見えました。ロンドン東部はかつて雑然としたところでしたが、オリンピックのお陰で今はモダンな地域になり、活気があります。そうした様子が近代的な建物などから醸し出されていました。特に高層ビルが増えていたのが印象的でしたね。

今回ご紹介する一冊はロンドンやマンチェスター、リーズやカーディフなどの水辺都市を取り上げたものです。古いものを残しながらいかにして新しい要素を取り込んだかがわかります。私は学部時代に都市社会学を専攻していたため、都市計画に興味があります。そうした視点からも十分楽しめる一冊です。

どの場所も個性があり素敵なのですが、中でも注目したのはロンドン東部ドックランズ地区にあるイーストロンドン大学のキャンパスでした。東西に大きく伸びるロイヤル・アルバート・ドックの北側に位置します。大学施設と学生寮が同じ敷地内にあり、ナーサリーも完備しています。完成は2000年で、オランダに見られるような近代的な建物が並びます。私の手元にある1998年の地図では倉庫になっていました。

普通の観光ガイドブックを眺めるのも好きなのですが、「ウォーターフロント」「建築」「都市計画」といったキーワードで旅をするのも楽しいでしょうね。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END