第8回「最高の仕事を提供するには」
今からずいぶん前のことです。通訳者としてデビューしたころ、ある案件の仕事を請け負いました。内容は理系・技術的なもので、数回に及ぶという業務でした。
当初は私一人が担当するというもので、日を置いて会議が数週間にわたって開かれるという予定でした。しかるべき資料を事前にエージェントさんから頂き、慣れない専門用語も自分なりに調べて単語集なども作成し、関連文献も読み込むなど、万全の態勢で臨みました。
しかし一日目の会議を終えてみてわかったのは、自分の予想をはるかに上回る専門的な会議であったということでした。技術面はもちろんのこと、契約などの法律分野も出てきたのです。自分としてはできる限りのことを現場では行い、誠意を込めて精いっぱい通訳をしました。しかし、通訳をしながら専門用語や思いがけない法律用語の台頭に訳がつまってしまったのです。幸いなことにクライアントさんがフォローをしてくださったので、何とかこの日一日は会議を終えることができました。
けれどもこの会議はあと数回続きます。そこで私は考えたのです。次回以降も今回のように、ときどき助け船をクライアントさんに出していただきながら私のやれる範囲で通訳をしていけば良いのか。それともエージェントさんに報告・相談し、現場の状況を正直に伝えるべきか。
一瞬私は悩みました。なぜならエージェントさんは私を信頼し、業務をアサインしてくださったのに、そこで「現場の社員の方がフォローしてくださった」などといった細かい点を報告することは、「自分は通訳者として無能です」と宣言するようなものだと思えてしまったからです。当時の私はまだ駆け出しで、「請け負った仕事はすべて完璧にこなさなければならない」といった必要以上の気合もありました。敗北を宣言するようなことをしてしまっては、かえってエージェントさんに迷惑をかけてしまうのではという不安もあったのです。
けれども私は正直に現場の状況をコーディネーターの方に報告しました。ポイントとしては、(1)精いっぱいの通訳はやった。しかし、想定外の専門用語(特に法律・契約用語)がたくさん出てきた。今後の会議の流れでは、契約などに話が及ぶと考えられる。(2)クライアントさんは現場でフォローしてくださったが、やはりクライアントさんが真に求める最高のサービスをスムーズに提供したほうが良いのではないか。(3)よって、たとえば法律に強い通訳者とペアを組むことで今後のインテンシブな業務にあたった方が良いのではないか。
これを受けてそのコーディネーターの方は実に素早いアクションをとってくださったのです。まず、そもそも長い一日をたった一人の駆け出し通訳者に任せることに無理があったことをクライアントさんに伝えてくださいました。その上で、より良い結果を会議の現場で出すためには、専門用語に対応できるベテラン通訳者も投入し、ペアで交代しながら通訳をすることが効果的であるとのメッセージをクライアントさんにご理解いただいたのです。おかげで次の回からは先輩通訳者と共に現場に臨み、業務を完了することができました。
もうずいぶん昔のことですが、あのときのコーディネーターさんには今でも感謝しています。お客様が求めるものは何かを常に念頭に置きながら、それを提供するために何が必要かをきちんと伝えるという交渉もしっかりとやってくださったからです。以来私は、通訳者というのはクライアントさんが求めるものをきちんと把握すること、また長期の会議では何か軌道修正の必要が生じた際にはそれに迅速に対応することが顧客満足につながるという考えで仕事をしています。
お客様が求めることは何か。これは通訳業に限らず、どのような業界でも常に意識していくことだと私は考えています。
【今週の一冊】
「P&G式 伝える技術 徹底する力」高田誠著、朝日新聞出版、2011年
本書は元P&G社員が記したもので、主にコミュニケーションに関する内容が書かれている。P&Gというと家庭用洗剤やシャンプーなどのイメージが強いが、化粧品や美容家電、ペット用品なども扱っている。それだけ多角的に経営する同社がどのようにしてコミュニケーション力を社員の間で高めて成長してきたかが本書からはわかるようになっている。
中でも印象的だったのは、報告などをする際にポイントを3つにまとめるという点である。「3個に絞る」というのはいろいろなビジネス書でも言われていることだが、P&Gの場合、さらに大事なことが続く。それは「すべての活動に目的があるべき」ということと「目的を達成するための活動だけをするべき」という2点である。
目的というのは簡単に言えば顧客満足を最終的には意味する。お客様に喜んでいただくサービスを提供するために、会社側は何をすべきかを考え、その目的を達成するための活動だけに集中して行うべきということになる。
たとえば外食の例でいうと次のような状況になる。「イタリアンを食べたい」というお客様にはイタリアンメニューを提供すべきであり、「いや、うちには有能なフレンチ・シェフがいますから」とゴリ押しして「フレンチもどきイタリア料理」を出したところで顧客満足にはつながらない。つまり、どんなに経営者が部下や自社の商品を評価していても、カスタマーが望むものを迅速にとらえて対応しなければ、サービスを提供したことにはならないのである。
常にお客様の立場を考えること。それに迅速に対応すること。それこそが双方にとって発展につながると思う。そんなことを考えた一冊であった。
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