INTERPRETATION

第328回 気配を察する

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

数年前、何かで読んだエッセイに興味深いことが書かれていました。電車内での座り方、具体的には「パーソナルスペース」に関する話題です。

その執筆者は電車で座っていた際、見知らぬ人と隣同士並んで座っていました。次の駅に着くと、その方のさらに向こうの席、具体的にはドア隣の端の席が空いたそうです。ところがお隣の方は、特に移動もせず、端の席は空いたままだったとのこと。「せっかく端の席が空いたのだから移動するのかと思いきや、ずっと自分の隣にくっついたままその人は座っていた。昔であればそういう時、あえてスペースを保つために移動する人が結構いたのに」とそのエッセイには綴られていました。

実は同様の経験を私も何度かしています。私自身、人混みが苦手であることから、余計パーソナルスペースには敏感なのかもしれません。今でも乗車中、端の席が空くとすぐ移動してしまいます。端の席であれば寄りかかれますし、両側から挟まれて窮屈な思いをせずにすみます。荷物が多いときなど、なおさら端の席はありがたいと思うのですね。たとえ空いた席が端でなかったとしても、空いている車内であれば、なるべく人とくっつかずに座りたいと思います。

一方、「席を移動しない理由」はもちろん人それぞれでしょう。パーソナルスペースにこだわらない方もいらっしゃるでしょうし、端の席も真ん中の席も、座れたのだから特に気にしないという乗客もいるはずです。

けれども、私が子どもの頃はそのような時、もっと席を移す人が多かったように思うのです。ではなぜ今は異なるのでしょうか?考えられる理由の一つとして、私はデジタル機器の普及を挙げたいと思います。

今は誰もがスマートフォンを持ち歩く時代で、いつでもどこでもメールを確認したり調べ物をネットでおこなったりできます。車内が「移動型オフィス」となり、そこで集中して作業ができるのですよね。忙しい今の時代において、そうした便利な機器はありがたいと言えるでしょう。

けれども集中してしまうがゆえに、周りが見えなくなるということもありえます。画面に見入ってしまい、隣の席が空いても「まったく気づかなかった」となりうるのです。言い換えると、「気配」への敏感さが減った状態です。

私は大学卒業後、会社員生活や留学を経て通訳者となりました。フリーランスで働いていますので、一回一回の仕事が真剣勝負です。体調管理も仕事のうち、失敗しないのが大前提ですので、それなりのプレッシャーはあります。どれほど予習して行っても、訳語が思い浮かばず苦戦したり、想定外で失敗をしたりということも少なくありません。謙虚に反省しつつ、必要以上に後悔を引きずらないことも、この仕事を続けていく上では必須です。

そのような職場環境下にありますので、「気配を察すること」は大切だと思うようになっています。ガイド通訳時代には、「時差が出てお疲れではないだろうか?」「そろそろお手洗い休憩をはさむべきか?」などと考えました。一方、ビジネス通訳をメインにしていた頃は、「今日の会議時間は30分。限られた時間なのでテンポよく通訳しよう」「移動中のタクシーでお客様に訪問先企業の最新情報をお伝えしよう」などを思いつきました。放送通訳に従事するようになってからは、「FBIやCIAなどの略語もわかりやすく正式名称で言おう」「国家元首のスピーチなので、アウトプットを意識しよう」などを意識しています。「相手が望むこと」「状況において自分に要求されること」を「気配」としてとらえ、それに応じて対応することが大切だと思うのです。

「気配を察知する能力」は一朝一夕でできるものではありません。私は学生時代、サークルのメンバーとスキー旅行に出かけたのですが、その時に忘れられない体験をしました。先輩のお茶碗にご飯をよそってお渡ししたときのこと。「あのねぇ、もう少し思いやりのあるよそい方をしてよ」と冗談交じりに注意されたのです。確かにお茶碗をのぞくと、しゃもじで無造作によそったご飯がありました。まったくおいしそうではなかったのです。「こういう風に盛り付けたらおいしそうになるだろうな」という思いやりが欠如していたのでした。

以来、相手の立場に立ち、自分はどう振る舞うべきかを心掛けるようになりました。けれども今なお試行錯誤の連続です。「気配を察すること」の習慣化は、日常生活でも通訳の現場でも大切だとしみじみ感じます。

(2017年10月23日)

【今週の一冊】

「音楽と病―病歴にみる大作曲家の姿」 ジョン・オシエー著、菅野弘久訳、法政大学出版局、2010年

数週間前のこのコラムでラフマニノフの本を紹介しました。以来、私の音楽熱は続いており、ラフマニノフのノイローゼをキーワードに色々と調べてみました。そしてたどり着いたのが、今回取り上げる「音楽と病」です。

本書の著者は医学史が専門のジョン・オシエー氏。メルボルンのモナッシュ大学で医学を専攻した後、医学史を始め作曲家と病などに関して執筆を続けています。バッハやヘンデル、ベートーベンにモーツァルトなど、著名な作曲家がどのような病気にかかり、亡くなったかが一冊でわかる構成です。

巻末には詳しい索引があるため、本書を入手するや私が真っ先に調べたのはやはりラフマニノフでした。読むと、ラフマニノフは鬱病に苦しんだだけでなく、最期は皮膚がんが原因で亡くなっています。

一方、ラフマニノフは生前、手が大きいことで知られていました。ピアノのオクターブを優に超えることができ、普通の体格の人では演奏できないような作品も残されています。実はこの手の大きさも「マルファン症候群」(膠原病の一種)だったと本書では説明しています。難解な作品が残された理由も実はこうしたところにあったのでしょう。

私が敬愛する精神科医・神谷美恵子先生は作家のバージニア・ウルフを精神医学的観点から分析し、書籍を記しています。本書は芸術家を医学の側面からとらえることができます。音楽作品への理解が一層深まると感じらました。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END