INTERPRETATION

第325回 Please, not now!

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

共働きを続けてきましたので、子どもたちは赤ちゃんの頃から保育園でした。長男はイギリス生まれ。イギリスの保育料は日本と比べ物にならないほど高額です。日本のような認可・認可外といった区分はなく、政府の認定を受けた民間の保育園と、「チャイルドマインダー(保育ママさん)」宅に預けるという2通りがありました。テレビ局は土日も出勤でしたので、平日は保育園、土日は保育ママさん宅で息子を見ていただいていましたが、やがて高額保育料が原因で夫婦の貯金が底を尽きてしまい、後先考えずに帰国したのでした。

日本に戻ってからも保育園のお世話になりました。イギリスと比べれば良心的な価格できめ細やかに養育していただき、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。ただし唯一大変だったのは「37度の壁」、つまり「お熱出ました迎えに来て下さい」連絡でした。イギリスの保育園は日本と比べて検温はほとんどなく、具合が悪そうになったら連絡が来るという感じです。よって帰国後、仕事中に携帯電話がなると「すわ、お迎えコール?」と心臓がドキドキしましたね。

しかも「お願い!今日だけは勘弁して」という時に限って、子どもは体調を崩したりしたのです。大きな会議を控えてどうしても予習をしなければという日に、「お熱出ています」「ケガしました」などの電話がかかってきたのですね。マーフィーの法則ではありませんが、”Please, not now!”と内心叫んだものでした。

幸い今はティーンエージャーになり、そうした連絡は以前ほどかかってこなくなりました。けれども面白いもので、「困難」が一気に重なることがあります。たとえばここ2週間で我が家は以下のことに直面しました:

(1)義父母宅の駐車場へ車を入れ、自動シャッターを閉めた途端、シャッターが閉まったまま故障。再度開けることができなくなる

→車を出せなければ、翌日の仕事に差し支えることに。しかもその日は台風!→幸いメーカーのスタッフが1時間以内に来宅。とりあえず開けることはできた

(2)ささいなことで子どもと意見不和

→あのタイミングで私が注意したがゆえに険悪に。ヤレヤレ・・・。

(3)給湯器が故障

→突然のお湯シャワー停止。仕方なくお風呂のお湯だけでその日は入浴。ところが追い炊きも自動給湯もその後すぐに全滅→修理担当者来宅まで数日。いったん給湯器復活→その日の夕方再度故障

とこのような具合です。

幸いなことに私たち夫婦はイギリスで水回り故障には慣れていました。現地の建物は古く、配管も年季が入っていてどうしても壊れやすいのですね。私など一度、ロンドンのアパートでお風呂のお湯をためていたら止まらなくなり、あやうくグリム童話の「おいしいおかゆ」状態になったこともありました。「修理を頼んだのに来なかった」など珍しくありません。 “How to write complaint letters”といった類の本には、配管工事会社宛の「苦情の手紙ひな形」が掲載されていたほどです。

そうした当時の大変な経験があったことを考えれば、今、自分が直面しているピンチも「ま、こんなものよね」と思えてきます。渦中にいるときはついアップアップしてしまいますが、いざ、放送通訳現場で世界の悲惨なニュースを訳すと、ささいなことで文句を言いがちになる自分が恥ずかしくなります。「住む家がある、食べるものがある、家族も今日一日無事に過ごせた」ということが、どれほど感謝すべきことなのかと思うのです。

(2017年10月2日)

【今週の一冊】

「マーラーを語る 名指揮者29人へのインタビュー」 ヴォルフガング・シャウフラー著、天崎浩二訳、音楽之友社、2016年

マーラーの交響曲第1番。この曲はずいぶん前に所沢のコンサートホールで聞いたことがあります。オランダのコンセルトヘボウと指揮者マリス・ヤンソンスの組み合わせです。開演前、ホール近くのコンビニで買い物をしていたところ、偶然にも楽団員数名と居合わせました。いずれも燕尾服姿です。開演に間に合うのかしらと思っていたところ、1曲目で出番はなかったのでしょうね。休憩後のマーラーでその楽団員さんたちが登場しました。打楽器パートの方でした。

そのとき聞いたマーラーの美しさは今でも忘れられません。特に第2楽章の弦楽器の音色はそれまで耳にしたこともないような、たとえて言うならビロードのような質感のものでした。オーケストラによって、そして指揮者によって、音色というのは変わるのですね。以来、私にとってマーラーの曲は特別なものとなっています。

今回ご紹介するのは、29名の指揮者たちが語るマーラー像です。ヤンソンスを始め、新進気鋭のドゥダメルや大ベテランのアバード、マゼールやメータなどが登場します。著者のシャウフラーはウィーンで音楽学を修めています。指揮者たちへのインタビュー項目は「マーラーとの出会い」「マーラーの曲のリハーサル方法」「楽器の配置」など多岐に渡ります。どの指揮者もそれぞれの答えがあり、興味深い一冊です。

マーラー好きな方はもちろんのこと、往年の指揮者たちのマーラー観がこの一冊から吸収できます。書籍サイトや図書館などの検索画面ではすべての指揮者の名前があいにく網羅されていないのですが、音楽に興味のある方にはぜひ一読していただきたい一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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