INTERPRETATION

第319回 もう一つの手段がある

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

母語以外の言語を学ぶメリットには色々とあります。多様な視点を得られること、交友関係を広げられること、たくさんの知識を吸収できることなどはその一部です。たとえば英語の力があれば、原書を読むことができますので、日本語訳の出版を待たなくて済みます。著名な方の来日講演会に出かければ、通訳なしで内容を理解できます。語学力や知識力が高ければ高いほど、オリジナルのニュアンスでメッセージを吸収できるのです。これは多大な時間節約となり、微妙な内容もありのまま把握できることになりますので、非常に便利です。

こうした長所に加えてもう一つ、最近感じることがあります。それは母語以外の言語を使うことによる「発信」です。

今の時代、SNSを用いれば世界中に向けて自分が伝えたいことを表に出せるようになりました。Facebookやインスタグラムのメンバーになっていれば、日本語以外で書き込むことで、世界中の誰とでもつながることができます。そこから新たな交友関係が始まり、自分の世界が広がることが可能となるのです。私が学生の頃など、文通紹介雑誌を見てはこちらから手紙を書いて封筒に入れて切手を貼り、投函。返事がくればラッキーという感じでした。隔世の感があります。

今の時代、英語を使って自分のことを知ってもらえる機会が無限大にあるのです。

ところで「発信」に関してはさらにメリットがあります。 それは「自分の内省したことを表現しやすい」という点です。

たとえば、母語であれば言いにくいことも外国語を使えば自分の想像以上に自由に表わせることがあります。私は日ごろ日記をつけているのですが、母語で書くのも何だか気恥ずかしいような自分の思いも、あえて英語で書き始めると堂々と表現でき、躊躇しがちな自分を解放できるのです。

なぜなのでしょう?おそらく母語というのは自分の心身に染みついているので、如実に書けば書くほど、恥ずかしさが増してしまいます。しかし外国語の場合、自分で表現してはいるものの、外国語であるがゆえにどこか他人事のように思えるのかもしれません。それがかえって幸いして、堂々と自分の正直な思いを表わせるようになるのでしょう。

小学2年生からつけ始めた日記は、私にとって人生の伴走者でもあります。嬉しかったことや辛かったことなどをこれまで書き留めてきました。子どもの頃というのは

今よりも考え方が単純でしたので、それほど自分の考えを書くのに躊躇することはなかったのですが、大人になるにつけ、自分だけの日記帳であってもどこか書くことにブレーキをかけている自分がいました。だからこそ、あえて英語で書いてみた方が客観的に真正面から自分に向き合えたのだと思います。

自分にはもう一つの手段がある。

そう考えると、私は英語という言語にどれほど救われているかわかりません。

(2017年8月21日)

【今週の一冊】

「『憧れ』の思想」 執行草舟著、PHP研究所、2017年

何かを学ぶ際に必要なことは3つあると私は考えます。指導者の教え方が上手なこと、使用教材が優れていること、学習者が学ぶ意欲に満ち溢れていることなどです。そのどれかが欠けてしまうと、向上への道のりは険しくなるのではないか。私は長年そう感じてきました。

けれどもここ数年、上記に加えてもう一つ、実は肝心なことがあると気づかされました。それは「憧れ」です。指導者への憧れ、学ぶ対象物そのものへの憧れです。たとえば通訳学習であれば、通訳スクールの先生がそれにあたりますし、通訳そのものが好きということが求められると思うのですね。こうした憧れがあって初めて、学ぶ側も自主的にやる気を抱けるのではないかと考えます。

だからこそ、指導に携わる者は自己研さんを怠ってはならないと思います。学習者以上に勉学に励み、人格を磨き、身なりを整えること。そうした総合的な努力をして教壇に立つ必要があると私は考えるようになりました。

今回ご紹介する一冊は、人生において「憧れ」こそ必要であるということを唱えたものです。私はこの本を偶然、立ち寄った書店で見つけました。生きる上で大切なのは憧れという思想であり、その憧れとは人生のはるか先にある「ともしび」であると著者は説きます。そのともしびに向けて私たちは限りある人生を歩んでいかなければならないのです。

その歩みというのは、もの悲しく遠いものです。著者はそうした到達不能なものにあこがれることを「焦がれうつ魂」と表現します。自己向上心も恋もすべて、その「焦がれうつ魂」が根底にあると説きます。

憧れというのは、一見、当事者が目をキラキラさせて憧憬するというイメージがあります。けれども、むしろもの悲しさを伴うものという内容に私は大いに納得しました。だからこそ、そのともしび目指して私たちはたゆまぬ努力をし続けるのでしょう。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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