第316回 せめて伝わる口調で
相手に何かを伝えたいとき、どうすれば一番効果的に伝わるか。
コミュニケーションの仕事に関わる私にとって、これは永遠の課題となっています。
相手が聞き取りやすいように「大きい声で」「はっきりと」話すというのは、必要最低限と言えます。けれどもそれだけでは伝わらないというのが最近実感しているところです。
たとえば、難しい交渉相手にこちらの要求を伝える場合、単に声高にパキパキと畳みかけるような話し方だけで先方がこちらの要求をいつも飲んでくれるとは限りません。むしろ、そうした話し方に相手は拒絶反応を示してしまい、聞く耳持たずということもあり得るのです。
これまで携わってきた通訳業務を振り返ってみると、成功のカギが3つほどあることに気づかされました。
1つ目。穏やかに話すことです。
もちろん、相手が聞き取れる声の音量は必要ですし、滑舌の良い話し方が求められます。けれども、パンパンパンと迅速さ「だけ」で話しても一筋縄では行かないことがあります。むしろ少しゆっくり目のペースで穏やかな口調の方が、相手にとっても聞いた内容を吟味・解釈する余裕が出てきます。「声に笑顔を持たせる」と言えば良いのでしょうか、声そのものが微笑んでいるような雰囲気です。
このような話し方は相手に安心感を与えます。そしてこちらに対しても「あ、穏やかな人なのだろうな」と思ってもらえます。それが好感となり信頼感となって、「では、話を聞いてみよう」と相手に思わせるのですね。
2点目は、自分と相手を明確にすることです。「私はこう思う」「私はあなたにこうして欲しい」という具合に、誰が主体となるのかを明らかにします。「一般論では」「世間の常識では」と言ってしまうと、それを聞いた相手は「自分には関係ない」と思いかねません。そうなってしまうと、どれだけ良いことを伝えていてもシャットアウトされてしまいます。
3つ目は、根気強く語り続ける点です。大事なことは伝わるまで何度も言い続けなければなりません。一度言ったから大丈夫と思わず、自分や相手にとって大切なことは繰り返し口にする必要があります。特に先方の壁が厚いほど、粘り強く繰り返すことが求められるでしょう。
これは仕事だけでなく、日常生活でも応用できそうです。特に家族の場合、甘えが出てしまい、かえってこちらの言うことが伝わらないというケースがあります。家族とは言え、やはり独自の個性を持った一人の人間です。「家族だから許してくれる、だから何でも言って良い」「どういう伝え方でもOK」とするのではなく、家族だからこそ、粘って粘って伝え続けなければならないこともあるのですよね。
コミュニケーションというのは本当に奥が深いと思います。相手が誰であれ、誠意を持って伝え続けること。伝わりにくいのであれば、せめて伝わる口調を工夫すること。
この作業は私にとって一生続きそうです。
(2017年7月24日)
【今週の一冊】
「日野原重明 一〇〇歳」 日野原重明、NHK取材班著、NHK出版、2011年
私が日野原先生のお名前を最初に知ったのは、確か高校生ぐらいの時だったと記憶しています。確か朝日新聞でした。著名人が寄稿するコラムに先生の文が掲載されていたのです。すでに当時から聖路加国際病院の先生として著名でいらっしゃいましたが、そのコラムにはご自身の半生を振り返る内容が綴られていました。
中でも衝撃的だったのが、「よど号ハイジャック事件」に巻き込まれ、人質となった体験談でした。乗客乗員全員がとらわれの身となり、いつ解放されるかもわからない。そのような中、犯人たちが何冊かの本を乗客たちに提供したのでした。日野原先生はそこで「カラマーゾフの兄弟」を選び、機内で大切に読み進めたことがそこには書かれていました。無事解放されてからは、自分の人生が自分のためだけではなく、人への奉仕であるという思いで生きている旨が綴られていたのでした。
以来、日野原先生のご活躍をテレビや書籍などで拝見するように私はなりました。私たちは日々、生きているとたくさんの恩恵を受けます。けれどもそうした御恩を施して下さった人へいつも直接お礼ができるとは限りません。ありがたいことをしていただきながら、孝行することもできず、ということが少なくないのです。だからこそ、いつかどこかで別の形でどなたかにその御恩を渡していくことが大切である、というのが日野原先生のメッセージです。この訓えを知って以来、私自身、どのようにすれば御恩のバトンリレーを続けていけるかを考えています。
本書はNHKのドキュメンタリーを土台とした一冊です。99歳の日野原先生をNHKは1年かけて密着取材をおこないました。巡回回診の様子、ご自宅で若手研修医たちを招いた懇親会、小学生向け命の授業など、先生の多様なご活躍が本書では紹介されています。先生は惜しくも105歳で先日お亡くなりになりましたが、使命感を持って生き続けることの大切さを率先して示されました。
部下を持つ上司、指導の場に立つ教員、学ぶ側の児童・生徒・学生、介護に携わる人を始め、あらゆる方が本書を読むことで勇気づけられると思います。ぜひこの一冊を通じて在りし日の先生のお姿に触れ、未来を担う私たちに与えられた「課題」を一人一人気づくことができればと私は考えています。
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