INTERPRETATION

第292回 「恵まれている」とあえて思う

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「早朝の放送通訳をしています」と話すと、「いつ寝ているんですか?」と尋ねられます。テレビ局の仕事のほかに大学や通訳学校での指導、コラムの執筆などもしているためか、「睡眠時間を削って仕事をしているのでは?」と想像されるらしいのですね。

若いころは私もずいぶん無理をしました。体力がありましたので、多少の寝不足も何のその。徹夜をしても何とか持ちこたえられていたのです。けれども人間は誰もが年を重ねていきます。平等に、です。よって「以前できたこと」も当然「できなくなってくる」のです。それに逆らっても自分の心が疲れるだけ。ならば自分の体力と真正面から向き合い、その都度その都度対応するのが最善と私は考えます。

さて、実際の睡眠時間ですが、私の場合、最低6時間は必要とします。理想は7時間ですが、なかなかそうもいきません。翌朝4時に起きねばならない日は前夜9時に寝たいところです。けれどもあれこれ家事や仕事準備をしていると、どうしても10時を回ってしまいます。子どもたちが寝静まってからたまった新聞を読んだり、勉強をしたりしたいという思いが心の中では強くありますので、余計そうなってしまうのです。

どうしても早起きせねばならない日は目覚ましをかけますが、早朝シフトがない日は自然に任せるようにしています。毎朝アラームを使わずに4時に起きたいと望んではいますが、無理はしません。起きられなかった日は「体が睡眠を求めている証拠」と割り切ります。また、私の場合、昼間に5~10分だけ仮眠をすることもあります。ブルブル振動するキッチンタイマーをセットして握り締めて寝るのです。たとえ数分でも大いにスッキリし、疲労回復になっています。

ちなみに私の知り合いの先生で毎朝3時に起きて仕事をなさっている方がいます。学校での仕事は多忙を極め、残業も多いのですが、3時を遵守なさっているようです。15年ほど前に同時通訳者・枝廣淳子さんの「朝2時起きでなんでもできる!」がベストセラーとなりましたが、こうした方々の取り組みはとても刺激になります。

睡眠の質ももちろん大切ですが、それ以上に、心のバランスを保つことこそ良い仕事に結びつくとも私は考えます。私の場合、「やらないことを決める」「余分な情報を仕入れない」「プラスに考える」を意識しています。「やらないこと」とは「今の自分に本当に必要なこと以外はあえて取り組まない」という意味です。数年前にフェイスブックを止めたのもそれが理由でした。懐かしの友人たちと接点を持ち続けたいという気持ちは強くあります。けれども、私自身の心は「だらだらネットサーフィン」に非常に弱かったのです。毎日数時間も閲覧に費やすようになり、友達の動向が気になっていました。「友達にコメントしなきゃ」という考えが「仕事を後回しにする言い訳」と化していったのです。そこでSNSはやらないと決めました。

「余分な情報」に関しては、「自分の心を左右する情報を必要以上に入れない」ということです。ニュースの仕事をしているため、以前は一日に何度もラジオニュースを聞いたり、ネットニュースを確認したりしていました。けれども最近は紙新聞をその分「きちんと」読むようにしています。放送通訳のある日だけはネットニュースも念入りにチェックしますが、普段の日はポータルサイトのトップページにあえてアクセスしなくなりました。ニュースの見出しが気になってしまうからです。

「プラスに考える」とは、とにかく前向きに自分の考えを仕向けることを意味します。先日も我が家の電子レンジが突然壊れてしまい、修理不能になりました。以前の私であれば「えぇっ?何で今?この忙しい時期に~。これから買いにいかなきゃいけないなんて」と心の中は文句タラタラで不機嫌になっていました。けれども今回は「午後の早い時間帯に壊れて良かった!今からなら仕事を調整して新品を買いに行けるし、夕食にも間に合う」と思ったのです。「新しいレンジを買う」という行為に変わりはありませんので、ネガティブになって自分をみじめにさせるよりも、「あ~良かった良かった」と思った方が救われます。

放送通訳をしていると、世界の悲惨なニュースによく接します。今この瞬間、地球上のどこかで苦しんでいる人がいます。そうした境遇の方々に比べれば、自分の睡眠不足も日常生活の不満も取るに足りないのです。「いかに恵まれているか」を高い視点かつ長期的な視野でとらえ、今自分がやるべきことに集中したいと思っています。

(2017年1月23日)

【今週の一冊】

「[超訳]エマソンの『自己信頼』」 ラルフ・ウォルドー・エマソン著、三浦和子訳、PHP研究所、2014年

トランプ大統領の就任式関連でテレビ局の仕事を請け負うことになり、トランプ氏の自伝を読みました。宣誓証言や演説など、予習課題がたくさんある中、トランプ氏自身がどのような人生をこれまで経てきたのか、どういう人生哲学を持っているのかを知ることも必要だと考えたのです。それまで私は大統領選挙でのトランプ氏の姿しか見ていませんでしたが、少なくとも自伝を読む限り、歴史書や哲学書などにも精通していることがわかりました。オバマ大統領がDon’t underestimate him(彼を過小評価してはいけない)と述べていましたが、私もそういう印象を抱いています。

今回ご紹介する一冊は、トランプ氏が勧めていたエマソンです。エマソンは19世紀のアメリカの思想家で、日本の知識人、たとえば宮澤賢治や福澤諭吉にも大いに影響を与えました。哲学めいた本というと難解な印象を抱きますが、本書は「超訳」とある通り、読みやすい日本語です。

読み進めていくと、人はいかに生きるべきか、仕事に対してどうあるべきかということが見えてきます。中でも私にとっては以下の文章が印象的でした。

「自分の仕事に打ちこみ、全力を尽くせば、ほっとしてほがらかな気分になるが、そうでなければ、自分の言葉や行動から心の安らぎは得られない。」(18ページ)

「周囲に影響されず、偏見もなく、賄賂にも恐怖にも動じない純心な心で、これまでと同じように意見を述べられる人は必ずや恐るべき人物にちがいない。(24ページ)

100年以上も前にしてすでに同調圧力に屈しない大切さが述べられているのですね。

「とにかく今、正しいことをせよ。見た目ばかりを気にしないようにしていれば、常に正しい生き方ができる。」(47ページ)

「自己の基準に従って責任を果たせば、世間の基準はいらなくなる」(84ページ)

最後にもう一つ:

「自分以外のものに頼っていると、数をやたらに大事にするようになる。」(116ページ)

・・・うーん、これなど「いいね!」や「フォロワー」の数を思い描いてしまいます。資格試験の点数やダイエットの数値にも通じますよね。要は他者のモノサシではなく、自分の基準を大切にせよというメッセージだと私は受け止めています。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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