INTERPRETATION

第282回 「身の丈に合う」ということ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

大学卒業後に入社した航空会社では、本社研修が入社一年目の社員に課されました。アムステルダムの本社へ出向き、数日間にわたり世界各国から集まった社員と共に座学や現場研修を行います。幼いころオランダに暮らしていたこともあり、懐かしのアムステルダムへ行けるだけでもワクワクしましたね。

当時はバブル経済末期だったためか会社側の羽振りもよく、往復ともにビジネスクラスでした。それまでエコノミー以外に乗ったことがありませんでしたので、ビジネスクラスの食事の質やアメニティの豊かさなどに私は驚きました。特に座席は、私が座っても両側にビジネスバッグを置けるほどの幅です。これは実に快適だと思いました。

けれどもその時、強烈に思ったことがあります。もともと学生時代は貧乏旅行ばかりをしてきた身分です。「こうした豊かさが自分の『当たり前』になってはならない」と自分を制したのです。会社のお金で研修に行かせていただくわけですから、ここはしっかりと学んで帰国し、会社のお役にたてるようにならねばと思いました。また、「本当にビジネスクラスに乗りたいのなら、しっかり働いて自分のお金で乗ること」および「そうしたステータスにふさわしい人格を身につけること」を痛切に感じたのでした。

結局私はそれから1年も経たないうちに留学をめざして転職します。けれども「自分の身の丈に合う環境」については、その後も心の中に強く抱いていました。

一方、通訳者デビューをしてからも、グリーン車やビジネスクラス、ホテルのスイートルームなどを提供されたことがありました。思えばまだまだ日本経済が潤っていたのですよね。通訳業は頭脳労働ですので、仕事を依頼するエージェントさんも通訳者へ色々と心遣いをして下さったのだと思います。おかげで移動中に落ち着いて仕事の準備をしたり、ホテルでは資料を広げて読み込みをしたりと、業務に集中できる環境を提供されたのは本当にありがたかったです。

そうした感謝の気持ちを抱きつつも、それでもなお、自分には身に余るそうした環境に申し訳なさを覚えていたのです。その感覚は今でも私の中で大きく存在します。企業やよその方から素晴らしい環境をお受けすることにはありがたさを覚えつつも、自分でそうしたことを欲するならば、しっかり自分でお金を払おうと思い、今に至っています。

ところで先日、レンタカーを借りました。これまでも家族旅行でレンタカーを利用しており、いつも小ぶりの車を選んでいたのです。けれども子どもたちが大きくなったこともあり、少し大きめの車種を考えました。

今回選んだのは、現在我が家で乗っている車の新型バージョンです。その車は1年ほど前に全面刷新しており、街中でもずいぶん見かけるようになりました。同じ車種でもどのような変化が施されたのかずっと気になっていましたので、今回はこの車を選びました。

我が家の車より少しだけ大型になり、デザインもカッコよくなっています。中に乗り込むと、ハイブリッド車ならではのエコ関連表示があり、車のキーもボタン式。内装も洗練されており、ずいぶん進化していることがわかりました。音も格段に静かになり、スムーズに運転できます。技術の進歩に一家全員驚いたほどでした。

ではすぐに乗り換えたいかと言うと、これまたそうでもないのですよね。今乗っている車はあちこち擦り傷だらけで内装もくたびれています。でも愛着があり、私にとっては「身の丈に合った車」なのです。どうやら私は自分なりの「心地よさ」というものがあり、それに浸れれば幸せなのでしょう。

(2016年11月7日)

【今週の一冊】

「重機の世界」 高石賢一著、東京書籍、2013年

毎日の生活を続けていると、スムーズに物事が運び、嬉しくなることがあります。かと思うと、何をやってもうまくいかず、嘆かわしく感じることも少なくありません。人間は機械ではないのですよね。照る日曇る日あるのが人生です。

先日のこと。いつも通る道を運転していると、突然渋滞に遭遇しました。普段であればスムーズに車が流れている通りです。いったい何が起きたのかとよくよく見ると、道路工事でした。片側通行になっていたのです。ちょうど夕方のラッシュ時に差し掛かっていたこともあり、なかなか車は前に進みません。

何かに直面した際、私はいつも「3つの選択肢」を頭の中に描きます。一つ目は「打開のために建設的な意見を考えること」です。不満を言うばかりでは前進できません。多少苦言を呈することになっても、それが改善につながるならば勇気をもって前向きな意見を述べるに限ると考えます。

2つめは「我慢すること」です。あえて意見を述べるほどでもなく、その事態が一期一会のようなものであるならば、何も言わずに我慢するに限ります。軋轢を生まず、その時だけ耐えれば何とかなるからです。

以上の二つが選べない場合、「その場を立ち去る」ということも考えます。どうしても耐えられなかったり、そこから離れたりすることが許されるならば、「立ち去る」という選択肢もありだと思うのです。人生は一回しかありませんので、あとは自分の心と体の反応次第ということになります。

話を交通渋滞に戻しましょう。この日私は3つの選択肢のうち「我慢する」を選びました。立ち去ることは前後に車がいたため難しかったからです。また、建設的意見として「工事は夜間にやるべし」などと工事関係者に言うのは、どう考えても無理ですし常識はずれです。裏道を探して渋滞から抜けるという選択もなかったため、「このままガマンしよう」と思ったのでした。

ところがそのおかげで、日頃見慣れない道路工事用機械をじっくりと見物できたのですね。よく見るとタイヤに溝の付いていない大きなローラー車が前後にゆっくりと動いては道路を固めています。近くにはショベルカーもあり、色々な「働く車」が控えています。「へえ~、こうして道路の工事が進むのね」と興味津々で見ていると、あっという間に時間が過ぎました。

今回ご紹介する一冊は、その時の経験がきっかけとなり入手したものです。著者の高石氏は重機の専門家で、都内でショップもお持ちです。本書はたくさんの働く車を紹介しています。サイズや機能、実際の作業現場での様子などが文章と写真で表されており、重機の世界がここまで奥深いのかと魅了されます。考えてみたら、私たちの住む家も、日頃使う道路も、乗っている電車なども、こうした工作機械が活動したからこそ機能しているのですよね。交通渋滞がきっかけで重機の世界を知ることができた、そんな一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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