INTERPRETATION

第2回 背中はすべてを物語る

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

ここ数年、世の中は目覚ましいスピードでデジタル化しています。かつては有人改札があったのに、今では自動改札が主流。車内アナウンスも自動で、ATMを使えば電子的な声で「ありがとうございました」のお礼が。確かにどれもタイムリーで正確であり、礼を失しているわけでは決してないのですが、やはりどこか無機質な感じを抱くのは私だけでしょうか。

日ごろ通訳の仕事に携わる私にとって、誰かと言葉を交わすという時間は大いに貴重です。たとえばお店のレジで会計の際、ほんの二言三言会話をするだけで、何だかこちらの心がポッと温まることもあります。特に相手の店員さんが笑顔を向けてくれたり、ちょっとした気配りをしてくれたりするだけで「ああ、やっぱりここで買ってよかったな」という幸せな気分になれるのです。

我が家は昨年秋に現在のマンションに引っ越したのですが、毎朝敷地内の清掃に携わる業者のスタッフの方がいます。雨の日も風の日も、マンション周辺の道路をほうきではくことから始まり、ごみ置き場を水とブラシで磨き上げ、階段の手すりを雑巾でせっせと拭いていきます。たまたま私が早朝ジョギングに出掛けた際、挨拶をしたことから少しずつ顔見知りになったのですが、いつも「おはようございます」と声をかけると、それはそれはにこやかに返事が返ってきます。こちらも朝一番で元気をいただくような、そんな感じがしています。

このスタッフの方を見ていると、働くことの大切さをしみじみ感じます。というのもこの方の場合、動作がきびきびとしており、体を動かして掃除をしていくことに一種の喜びを抱いているような、そんな様子が背中から醸し出されているのです。もし嫌々携わっていたならば、おそらくそうしたオーラ(というと大げさかもしれませんが)は出ないはずです。けれども何か使命感のようなものを持ちながら目の前の仕事をきちんとこなす様子は、やはり自分の背中に表れると思います。

仕事というのは、誰かに直接的に褒められるためだけに行うものではありません。通訳業のように、どちらかというと目立つ職種もあれば、通訳者たちが100パーセント力を出し切れるよう裏方で多大な力を発揮してくれるスタッフもいるのです。

どのような職業にもそれぞれの役割があり、使命があります。華やかな世界以外にも目を向け、感謝していくことも大切だなと改めて思っています。

(2010年12月13日)

【今週の一冊】

「国家の命運」中三十二著、新潮新書、2010年

元外務事務次官の薮中氏と言えば、拉致問題の交渉担当者としてテレビでその姿を見た人も多いと思う。大阪大学ESSの出身で、外務省では数々のネゴシエーションに携わった経歴の持ち主である。

本書は外交官としての立場から見た日本について述べられたもので、実に多くの問題提起がなされている。今後の日本を考えるのであれば、一度こうした書籍を通じて世界の中の日本というものを意識することは大切だと思う。

もう一つ読みごたえがあったのは、交渉のやり方について。薮中氏によれば、交渉をするうえで一番大切なのは信頼関係を築くことであり、さらに(1)嘘をつかない、(2)絶対に必要なことと融通の利くことを分けて相手に伝える、そして(3)ダメなことははっきり言う、の3点が求められるのだそうだ。これは外交交渉だけでなく、おそらくビジネスや子育ての場面でも応用できるであろう。

昨今の中国や朝鮮半島に関する話題もたくさん出ている。タイムリーな世界情勢を知りたい方にお勧めしたい一冊。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END