INTERPRETATION

第278回 ボヤキより打開策

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

子どもの頃の私は人目を非常に気にするタイプでした。幼少期、近所の友達と遊ぶ際はもっぱら「指示される側」であり、友達より目立つことを恐れました。7歳の時にオランダへ、そして10歳になるとロンドンへ引っ越したのですが、英語理解からはほど遠い状態でした。特にイギリスの学校は宿題も多く、通学時間も長かったため、日本のように下校後に友達と遊ぶということはなかったのです。当時通っていた女子校はほぼアングロ・サクソン系の生徒で構成されており、「私はここにいてはいけないのではないか」と思ったほどでした。神経が過敏になっていたのですね。いじめや差別もあり、子ども心に苦労しました。

そのようなことから、帰宅後は毎日のように母に悩みを相談し、愚痴を聞いてもらうという状況でした。私は一人娘で父も多忙、母も特に仕事をしていたわけではおらず、私の話に付き合う時間的余裕はあったのです。以来、成人を過ぎて自宅を出るまで私の「夕食後の愚痴タイム」は何年にもわたり続いたのでした。辛抱強く聴き続けてくれた母には感謝しています。

そのような「デフォルトでグチグチ・うじうじ悩む系」の自分に変化が訪れたのは、通訳者デビューをして間もないころでした。エージェントから依頼された業務は、とある企業の社内会議。逐次通訳・二人体制です。概要は知らされていたのですが、「先方からの資料はなし」という連絡が届くばかりで、直前に「本当にないのですね?」と念を押したときも、無しとの答えでした。こうなると最大限の準備を自分なりにおこなって臨むしかありません。意を決して当日の朝、会場に向かいました。

ところがいざ会議室に通されると、通訳席の前には分厚い電話帳3冊分と思しき資料が積み重なっていたのです。聞けばこれが本日の会議で使う資料一式とのこと。先輩通訳者も到着し、一瞬目を見開いておられるのがわかりました。

私は内心、「えぇ~~~?資料は一切なしって言われていたのに、ホントはあるの~?これを使いながら初見で難しい逐次通訳なんてムリムリ、絶対無理っ!」と思いました。エージェントがクライアントに事前確認した時点で「ない」の一点張りをしておきながら、後出しじゃんけんはルール違反とさえ感じたのです。脱力感、焦り、苛立ちなど、様々な感情が自分の中に沸き起こるのがわかりました。

ところがその時ご一緒した先輩は、「これが今日の資料ですね。わかりました。じゃ、私たち二人でこれを今すぐ分配して担当箇所を決めましょう。まだ数十分ありますから、ひたすら読んでいきましょうね」とおっしゃるのです。大ベテランの通訳者でいらっしゃるゆえ、クライアントさんにクレームをおっしゃるのかと思いきや、まったく逆の反応だったのです。

そのとき私は思いました。ぼやいても愚痴を言っても怒っても、目の前の事実は事実なのです。与えられた環境の中で最大限できることを考え、実践していくしかないのです。あの場でクレームをゴチャゴチャ言い始めたら、それだけで数分、いえ数十分の時間は失われたでしょう。先輩はそのようなことはせず、手際よく資料を割り振ってくださり、おかげでひたすら読み込み作業に入れたのでした。

以来私は何か一大事に遭遇すると、「ボヤキではなく打開策を」と考えるようになりました。愚痴やボヤキを口にするのは過去だけを見ていることの現れです。それでは前に進めません。起こってしまったことはもうその時点で「過去」なのです。そうであるならば、そこからどう打開していくかを必死に考えるのみなのですね。

その時ご一緒した先輩がどなただったのか、あまりにも昔で今やお名前もお顔も思い出せないのですが、私の価値観や行動パターンを決定的に変えて下さったのは事実です。今でもこのことを思い出すたびに、感謝の思いでいっぱいになります。

(2016年10月3日)

【今週の一冊】

“Richard Scarry’s Best Mother Goose Ever” Random House, 1999年

今回ご紹介するのは日本でも「スカーリーおじさん」あるいは「スキャリーおじさん」として知られる絵本画家・Richard Scarryの一冊です。

私がスカーリーの絵本に初めて出会ったのは、小学校2年生の時。父の転勤でアムステルダムのインターナショナル・スクールに転入し、学内の図書室で借りた絵本がスカーリーの一冊でした。確かアルファベットの絵本だったと記憶しています。動物たちの何とも愛くるしい表情に魅了され、印象に残っていたのでした。

けれども不思議なことに我が家の子どもたちが育つ際、スカーリーの絵本を読み聞かせたことはありませんでした。当時の我が家は絵本クラブから配本してもらっており、届いた本を読み聞かせるだけで精一杯だったのです。

本書はマザーグースの詩がいくつか紹介されており、絵を見ながら楽しめる作りになっています。想定読者年齢はおそらく5歳から8歳ぐらいでしょうか。文字も大きく、詩の内容にちなんだ絵が子どもの心に訴えかけます。日本でもおなじみの一節もあれば、私自身、初めてお目にかかった詩もあり、とても勉強になりました。

中でも最大の収穫は、数か月前に読んだ”Charlie and the Chocolate Factory”の一節が、マザーグースの一部とよく似ていると知ったことです。ダールの原作の冒頭でチャーリーが紹介される際、”How d’you do? And how d’you do? And how d’you do again?”とあります。マザーグースでも”How do you do, and how do you do, And how do you do again?”と出ていたのですね。そう考えると、チャーリーに出てくる「ウィリー・ウォンカ」も、マザーグースのWee Willie Winkieに似ているように思えます。

日本の子ども向けに描かれる動物というのは、スカーリーの描く「かわいさ」とは少々異なります。海外の子どもたちがcuteをどうとらえているか、そのような比較もできる一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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