第273回 インターネットのこと
かつて私が通訳デビューをしたころはインターネットもなく、調べ物はもっぱら紙版の書籍、新聞などを通じてでした。エージェントから依頼連絡を電話で受け(今はメールがほとんどですよね)、資料が郵便ないし宅配便で到着するまでの数日間は自発的に書店や図書館などへ出かけて、出来る限りの準備を先手先手で進めていったのです。業務内容のキーワードをもとに自分なりの「ヤマカケ」をして、当日に向けて備えていったのでした。今であれば自宅にいながらにしてインターネット経由でたくさんの情報を得られます。そう考えると隔世の感がありますよね。
けれども、当時の不自由な時代が大変で今がラクなのかと問われれば、必ずしもそうではないと私は感じています。ヤマカケをするのであれば、どういった内容が当日の通訳業務中に飛び出すのか、感覚を研ぎ澄ませて想像する必要があります。また、情報量が限られている分、自分なりに割り切ることができますので、与えられた情報をじっくり集中して読むこともできます。私の場合、情報があり過ぎてしまうと「あ、あの資料も読まなきゃ。あちらのネット情報も知っておかないと」となり、「○○しなければモード」が全開となってしまいます。つまり、やらねばならないことに圧倒されてしまい、今、目の前のことに集中できなくなってしまうのです。これでは限られた勉強時間を有効に活用することができません。
過日、書籍PR冊子「本の窓」(小学館発行)を読んでいたところ、僧侶の小池龍之介さんが興味深いことを書いていました。小池さんはかつてインターネットやメールなど、たくさんのデジタル手段と接点を持っていましたが、あまりの情報量の多さから徐々にネットから離れていったそうです。そうすることで時間的・精神的な余裕を取り戻したと綴っていました。今ではパソコン自体も処分してしまったのだそうです。
私の場合、すべてのデジタル環境から身を切り離すことは仕事の都合上できません。けれども、なるべく自分の頭で考える時間を多く持ちたいと考えます。このため、いまだにスマートフォンやモバイルPCをあえて持たないという選択をしているのです。将来的にすべてがスマホでという時代になれば、要検討ということになるでしょう。
インターネットの良さには、いつでもどこでも情報を手に入れられる点がありますが、その一方で、玉石混交の情報も混ざっているため、それに振り回されない意志の強さも利用者には求められると私は思っています。たとえば何か悩みに遭遇した際、検索サイトでキーワードを入力すればたくさんの結果が出てきます。けれども検索結果の上位に表示されるものが、公式な団体による説明とは限りません。仮に、ある病気について調べたとき、医療団体や専門家の記述が画面の上部に表れるとは言い切れないのです。個人が善意でまとめたサイト紹介もあれば、疑問解決サイトの結果が出てくることもあります。もちろん、そうしたところに出ているものも正しいとは思うのですが、Aという意見もあればBという考えもあるなど、情報の幅が非常に大きいのです。
病気に関することであれば、むしろ訪ねるべき場所は専門家のいる病院や公的機関の相談所でしょう。ネット上の情報で不安に陥るよりは、自ら足を運んで尋ねた方が時間の節約になります。「どうしよう?」と悩みながら何日もPCの前で苦しい思いをするよりも、一歩踏み出していった方が早期発見・早期解決につながるのです。
これは病気に限らず、様々なことに当てはまります。英語学習で悩んでいるときも、信頼できる人に直接相談することでヒントや元気を得ることができます。まずは「行動」をとることが大切と私は考えています。
(2016年8月22日)
【今週の一冊】
数年前にロンドンへ旅行した際、Cabinet War Roomsという博物館を訪れました。ここは第二次世界大戦中にチャーチル首相が指令を出した所で、ウェストミンスターの官庁街の地下に設けられています。そこのミュージアムショップで様々な商品を眺めていたところ、いくつかの商品にKeep Calm and Carry Onという文が印刷されていました。文字通り訳せば、「平静を保ち、普通の生活を続けよ」です。
この一文は第二次世界大戦中、イギリス国民に対して使われた士気高揚のためのプロパガンダ・ポスターに書かれていました。当時の政府はこのようなポスターを何種類か用意していましたが、このKeep Calm and Carry Onポスターだけは最悪の事態に陥った際に使おうと考えたそうです。しかし、結局戦時中に用いられることはなく、その後、公にもならず、ポスター自体が発見されたのはつい最近のことのようです。このエピソードについては、インターネットでKeep Calm and Carry Onと検索すれば調べることができます。
さて、今回ご紹介する本には第一次世界大戦中のポスターが取り上げられているのですが、そうしたポスターがどういう経緯で制作されたのか、また、国威発揚へどのような影響があったのかなどが学術的観点から説明されています。
こうしたポスターを描いた作者や画家というのは、ポスター自体に名前を記すことも少なく、たとえ興味深いデザインであってもなかなか「芸術」としての観点から知ることができません。けれども、アートとして考えれば実に興味深い要素がこのようなポスターには盛り込まれており、当時の流行やデザイン的側面を知ることができます。
プロパガンダ・ポスターはアメリカやイギリスだけでなく、当時のソ連や日本のポスターにも美しいデザインのものが存在します。本書を読むことで、戦争についてはもちろんのこと、過去のデザインに思いを馳せることもでき、とても興味深い一冊です。
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