第270回 School Choirの思い出
先週のこのコラムでギャレス・マローンのドキュメンタリーをご紹介しました。あの番組を観ていて実に懐かしく思い出されたのが、幼少期に過ごしたイギリスの小中学校時代のことでした。
当時のイギリスはまだ今ほど多文化共生ではなく、非英国人は数名でした。先生は絶対的な存在で、授業中、他クラスの先生が入っていらっしゃれば、たとえノートをとっているさなかでも、あるいはディスカッション中であっても、私たちは全員しずかになり、すぐさま立ち上がるのです。「起立する」ということが先生方や来校者への礼儀でした。すると先生方は”Sit down please, ladies.”と呼び掛けられ、私たちは着席したのでした。
当時の校長先生は、ハリー・ポッターに出てくるようなガウンをよく着ておられました。ガウンの裾をひろめかしながら入室されると、私たち児童生徒は緊張感のピークに達していましたね。いえ、校長先生がいつもガミガミ怒っていらしたとか、しかめっつら状態だったわけでは全くないのです。むしろ口元にはいつも笑みがあり、背筋をピンと伸ばし、威厳がある堂々としたお姿でした。後光が差すようなそんな雰囲気に、むしろ子どもたちは畏れ多さを覚えていたのです。
英語がまったくできなかった私が、学校の中で存在感を発揮できる授業は数学と音楽だけでした。中でも音楽の先生は人格者で、私は心から尊敬していましたね。いつも楽しそうに音楽について語り、大きい声で英語もはっきりと話していらっしゃいました。音楽は世界共通語ですので、英単語がわからなくても「あ、ト音記号のことをG clefと言うんだ!」と授業を聞きながら頭の中で多くのことに合点がいきました。また、先生は教室の私たちの良い面を引き出そう引き出そうとされていることも、子ども心にわかりました。上手にできたところは褒め、改善点もきちんと指摘してくださったのです。音楽への愛にあふれた授業でした。
その分、いい加減な態度の生徒や課題をきちんとしなかった子たちへの注意は厳しいものでした。宿題は学校と生徒とのいわば「契約」であり、授業をまじめに受けることも同様です。そうした「ルール」を破ることは、本人にとって良くないのはもちろんなのですが、同じ教室でしっかりと授業を受けている別の子たちに不利益をもたらすというのが先生の考えでした。ゆえに、先生に厳しく注意をされた子たちは、先生の哲学に触れることで自らを反省していったのです。こうして先生の音楽の授業は、規律と楽しさにあふれた空間となっていったのでした。
転入してから数年間の私はなかなか英語力が伸びず、音楽と数学以外の試験結果はひどいものでした。それでも不登校に陥らずに通い続けることができたのは、この先生のおかげだと思っています。先生が褒めて認めて下さる、だからもっと頑張ろうと考えた私は、学校の合唱団にも入りました。イギリスではschool choirと言います。
私が通っていた学校の合唱団は決して大規模ではありませんでした。練習も週に1度、しかも昼休みの30分だけです。けれどもその数十分間は先生がつきっきりで指導してくださり、実に密度の濃いものでしたね。歌い方の基礎や歌詞の解釈など、限られた時間の中で先生はたくさんのことを教えて下さったのです。私は英語学習でも音楽でも「量以上に質が大切」と考えています。これはおそらくこの合唱団時代の経験から来ているのでしょう。
色々な曲を歌いましたが、今でも鮮明に覚えているのがビートルズのWhen I’m Sixty-FourやミュージカルのJesus Christ Superstar、同じくミュージカルのJoseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat、黒人霊歌のGo Down Mosesなどです。コンクール主体の合唱団ではありませんでしたが、私たちは学校行事の際に歌ったり、朝礼で成果を披露したりと歌う機会はたくさんありました。また、近くのケアホームや児童施設などに出向いて歌ったり、クリスマスの時期には地元教会の礼拝にお邪魔したりしたこともありました。「聞いて下さる人に喜んでいただく」ということが大きな目的だったのです。
先生は練習時も本番も、指揮台に立てばニコニコ笑顔でした。演奏開始前、指揮棒を構えると先生はいつも “Watch ME!”と口パクで合図されていました。第一声を発する前というのは生徒たちにとって緊張の瞬間です。けれども「先生を信頼して先生の指揮を見ていれば絶対にうまくいく」と私たち生徒は全員信じていたのです。それぐらい先生と生徒の間には絶対的な信頼関係がありました。
あれからずいぶん月日が経ち、私が通っていた学校もイギリスの学校改革のあおりを受け、地元のライバル校に吸収されました。Mrs. Leeが今どうされているかはわかりません。けれども、先生が教えて下さった大切なことは、今でも私の中でしっかりと生き続けているのです。
(2016年8月1日)
【今週の一冊】
http://www.thetimes.co.uk/?sunday
“The Sunday Times”
今回ご紹介するのは書籍ではなくイギリスのThe Sunday Timesという新聞です。イギリスでは平日の新聞と日曜日の新聞では編集体系が異なり、記者や編集作業に携わる人も別チームとなっています。
The Sunday Timesを実際に手にしてみると、まるで日本のお正月版の新聞のように別刷りがたくさん織り込まれています。さらに数冊のカラー雑誌も入っており、日曜日の一日だけですべて読み切るには相当の量と言えます。かつて私が暮らしていた1970年代のイギリスであれば、人々も日曜日は教会へ行き、帰宅後はゆっくりとこうした新聞をめくっていたのでしょう。商店はどこも閉まっていましたので、外へ出かけるとしてもせいぜい公園を散策するぐらいしかなかったのです。それぐらい時がゆっくりと流れる時代でした。
留学時代や仕事でイギリスにいたころ、この日曜版はよく読んでいましたが、いかんせん、量が多かったため、買ったものの積読ということもよくありました。それでもカラー雑誌の写真に魅了されたり、ファッションページやレシピコーナーなどを参考にしたりと楽しんでいました。ここ数年は読売新聞が発行するThe Japan Newsに転載されているThe Timesの抜粋も好きで読んでいます。
それでもあの分厚くてドアのポストに入らないほどのどっしりした日曜版が私にとっては懐かしいのです。そこで意を決し、今年春から空輸で購読することにしました。イギリスで発行されている新聞をそのまま宅配していただけるわけですので、本当にありがたい時代になったと感じます。
日本に到着するのは数日遅れですが、さほどニュースが古くなるわけでもありません。ですので、イギリスならではの観点でBrexitのニュースを読んだり、スポーツニュースを追いかけたりと様々な形で楽しむことができます。積読を避けるポイントは、とにかく早めに「空気を入れる」、つまり全ページをとりあえずめくって眺めておくことに尽きます。すべてを読もうとすると苦行になってしまいますので、あくまでも「楽しそうな記事を見つけてじっくり読む」というのが私のスタンスです。
ここ数週間は、気になる記事だけをビリビリとページごと破り、ファイルにまとめて入れて持ち歩くようにしています。電車の待ち時間や隙間時間などにそうした記事を読むと、仕事準備資料オンリーの世界からの気分転換にもなります。
また、面白そうな単語やフレーズにも下線を引き、辞書を調べて意味をチェックするのもボキャブラリー増強につながります。楽しくワクワクしつつ読むというのが目下、私の趣味になっています。
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