第268回 学びを楽しむこと
ふとしたきっかけで通訳という仕事に携わるようになった私にとって、これまでの様々な出会いやタイミングというのはすべて感謝に値すると感じています。昔からジャーナリズムには興味がありましたので、今、こうして放送通訳の現場にいられることは本当に幸せですし、学びを一生続けることができるのも、この仕事の恩恵だと思っています。もともと通訳者になろうと最初から目指していたわけではなく、留学から帰国後、たまたま不況であったがゆえに定職にありつけなかったのが始まりでした。失業状態の中、かつてお世話になった通訳学校の先生にごあいさつに伺ったところ、「ちょうど今繁忙期だから通訳を手伝って」と言われたのです。それが私にとっては人生の大きな転換点でした。多くのめぐりあわせに感謝する次第です。
さて、人間が生きる上で大切なことは色々あります。アメリカの心理学者マズローは、「人間の欲求」を5段階に分け、その学説を20世紀半ばに発表しました。中でも「生理的欲求」である「食事、水、呼吸、睡眠」などはヒトという存在が生きる上で不可欠です。その上の段階に「安全の欲求」「社会的欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」が続くのですが、通訳という仕事は上位3つの欲求を大きく満たしてくれると私はとらえています。
中でも最上位にある「自己実現の欲求」には、問題解決や創造性といった項目が含まれます。通訳業における学びには終わりがありませんので、通訳者たちはそれぞれ業務を通じて創意工夫を図りながらひたすら学び続けています。その根底には「未知のことをさらに知りたい」という強い思いがあり、学びのために労力を惜しまず、学ぶ過程そのものも大いに楽しんでいるのが通訳者なのです。
私の場合、「目の前のものすべてが学び」ととらえて現在に至っています。食品パッケージに書かれている文言を始め、駅で配布されているフリーペーパーも立派な学習対象です。あるニュースを耳にして、その中の一つの単語を調べ始め、そこから百科事典、世界史年表、美術書、学術書にマンガなど、どんどんどんどん広げていくのは至福のひとときです。以前読んだとある通訳の方がエッセイで「辞書を読んでいると恍惚としてしまう」という趣旨のことを書いておられましたが、まさに私もそのような感じです。
今の時代はややもすると「対策さえたてれば突破できる」「ハウツーを身につければ勝てる」という考えがメインになりがちです。たとえば英語関連の資格試験も同様で、実力を図るために作られたテストが今や対策の対象となり、そうした書籍やセミナーは花盛りです。「仕事でどうしてもその試験で高得点をとらなければならない」など、しかるべき事情があるのであれば、そのような対策も有りでしょう。けれども英語であれどのような分野であれ、本来の学びというのは、対策を立ててそれを自己証明に使うのとは異なるように私は考えます。
通訳の仕事というのは、人のお役に立てて初めて任務を達成できるものと私はとらえています。業務前の詰め込み式勉強ももちろん大切です。けれども、今、この瞬間に見聞したこと、体験したこと、自分が感じたことすべてが数年後、あるいは数十年後に生きてくるのが通訳という仕事なのです。いや、もしかしたら何年経っても役に立たないまま、その知識は脳内で埋もれて忘れ去られるのかもしれません。
ただ、私はこうも思うのです。たとえ陽の目を見ない知識であれ、学び続けること自体が自分の使命なのだ、と。
これから通訳者としてデビューなさる方々が、学ぶ楽しさを味わいながらどんどん活躍してくださればと願っています。
(2016年7月18日)
【今週の一冊】
“The Story About Ping” Marjorie Flack著、Kurt Wiese画、Grosset & Dunlap; Reissue版、2014年
先日、絵本に関連する会議の通訳をしました。我が家の子どもたちはすでに中学生となり、かつて夢中になった絵本から児童書を経て今や一般の書物にも関心を抱いています。彼らが幼いころ、私たち夫婦も眠気との闘いの中、絵本の読み聞かせをしたことも今となっては懐かしい思い出です。もっとも、こちらの方が疲労困憊していて途中まで読み終えることができず、子どもたちに「ねえ、途中で寝ないで~」と起こされたこともありましたが・・・。
今回ご紹介するのは、”The Story About Ping”という絵本です。アメリカで1933年に発行されたロングセラーで、今でも名作として読み継がれています。日本では「あひるのピンのぼうけん」という邦題です。ストーリーは、ピンという子アヒルが家族から離れて多様な冒険をしつつ、晴れて家族の元へ戻るというものです。
先の会議は同時通訳で、開始前にこの絵本をセミナー講師から見せていただくことができました。しかし、開始までの準備時間は限られており、唯一できたのは邦題を教えていただくことと、ざっとページをめくり、英文を目に入れるぐらいでした。本来であればじっくりとこの美しい絵柄や話の流れを堪能したかったのですが、業務前となるとなかなかそうはいきません。それでも斜め読みできたのは実にありがたいものでした。
いざ本番が始まると、セミナー講師はページをめくり、絵本に書かれている文章を音読してくださいました。幸い、書画カメラがページを大きくとらえており、私もそれを追いながら通訳することができました。
ところが本文に出てくるYangze Riverで何と私は訳語に詰まってしまったのです。頭の中で「揚子江」という単語は浮かんでいました。ところがBBC時代の「『揚子江』ではなく『長江』と通訳する」というBBCルールをふと思い出してしまい、訳せなくなってしまったのです。「あれ、こういうときはそのまま揚子江で良いのだっけ?それとも長江にすべきか?」と要らぬ考えが頭の中をよぎってしまい、最後の最後まで「揚子江」も「長江」も出ずじまいとなったのでした。私の苦し紛れの訳は「中国の大きな川」。迷った時は一次元上の観点から訳すので、間違いではありませんでしたが、基本的な語に詰まってしまったこと自体を反省しました。
仕事におけるくやしさというのは決して無駄でないと私は思っています。ですので、私は早速この絵本を図書館から借り、改めてじっくり読み進めてみたのです。今回はストーリーも絵柄も味わえましたので、一人の読者として大いに楽しめました。
ちなみにアメリカのあるサイトでは、この絵本を授業で生かすヒントが書かれています。絵の構図やタッチ、当時の中国のことなど、多様な角度から分析がなされています。絵本をありのままに楽しむのも好きですが、こうした美術的・歴史的観点から観てみるのも面白いですよね。ちなみに1933年と言えば、第二次世界大戦が始まる前。1931年にはアメリカのパール・バックが中国を舞台にした大作「大地」を記しています。
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