INTERPRETATION

第265回 イギリスの今後を想う

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

イギリスがEU離脱を決めました。投票直前まで離脱派と残留派の選挙戦は続き、国会議員も犠牲になるなど、世界は大きく注目しました。離脱の是非はイギリスだけの問題ではありません。株式市場への影響、世界経済への波及、現地に展開する企業の今後の動向など、世界の国々にとってこれは他人ごとではなかったのです。

離脱のニュースはCNNでもずいぶん前から取り上げられていました。数年前のスコットランド独立投票同様、当初は私自身も残留派が勝利すると思っていたのです。けれども投票日が近付くにつれて世論調査を見ても両派の支持率は拮抗するようになりました。日本のメディアも大きく扱うようになり、万が一に備えて人々の関心も高まっていったのです。とは言え、世界がこれだけ狭くなっているのですから、残留派が勝つであろうと私は考えていたのでした。

今回の離脱派勝利を受けて、株価や通貨などは大きく反応しています。現地で展開する日系企業にとっても不安があることでしょう。アメリカ大統領選挙への影響はもちろんのこと、今年選挙を控えるEUの他国でどういった結果が出てくるのかも気になります。しかし、あれこれと不安感をあおったり、必要以上に大騒ぎしたりすることはかえって世の中を不透明にさせてしまうのではないか。そう私は考えます。

国民投票というのはあくまでもその国の民意であり、投票の自由を与えられているのも民主主義の恩恵です。他国はその結果を尊重すべきなのですよね。私は子どもの頃と大学院、そして社会人になってからイギリスに暮らしましたが、それぞれの時期のイギリスがどういった雰囲気であったか、今でも強烈に覚えています。小学生当時の英国は「英国病」と揶揄される時代で、過去の栄光を懐かしむ中、ゼネストや倦怠感が漂っていました。ゴミ収集職人のストで街中にはゴミが舞い、郵便局のストで郵便物は数か月届かず、パン屋さんも業務をやめたのでパン店は閉鎖、自動車工場も同様で、我が家の車は3か月間も修理から戻らなかったことがありました。民族構成も今ほど多文化共生ではなく、私が通う小学校もほとんどがいわゆる白人でした。あまり目立たない方が良いのではないか。そんな思いを抱きながら私は暮らしていました。

しかし、サッチャー政権による大幅な改革でイギリスも変わり、私が留学したころは活気がありました。街路には美しい花々が咲くつりしのぶが飾られ、様々な国籍の人が共存していました。国を開放するというのは、こうした多様性を受け入れることなのだと肌で感じましたね。もっとも、私が在籍した学科だけはなぜかイギリス人が多く、留学生は私一人だけ。またもや「日本代表」を仰せつかったかのごとく、緊張しながらの日々でした。自分がもし軽率な言動をとれば、「日本とはそんな国なのか」と先入観を与えてしまいます。小学校時代のあの緊張感をつい思い出してしまい、修士課程のさなかもずっと自分の行動に気を付けねばと思っていたのです。

BBC時代のイギリスはさらに多文化・多様性が進んでいました。たとえば、かつて白人ばかりが暮らしていた街に出かけてみると、私には読めない文字の看板が並んでいたのです。別の国の出身者が多くそこには住んでいたのがわかりました。「多様性を受け入れる」とは、もともとその国に暮らす人たちにとって「未知なるもの」を受け入れることを意味します。日本もその頃、海外からの労働者が少しずつ増えていたころでしたので、平和裏に共存するためにはどうすべきか、当時の私はぼんやりと考えていたことを思い出します。

そして2016年の初夏。イギリス国民はEUからの離脱を決めました。とは言え、圧倒的多数による決定ではありません。民意は真っ二つに割れ、かろうじて離脱派が勝利したという図式です。今回のEU離脱は「EUとイギリス」「イギリスと世界」という関係以上に、イギリス国内の二つの意見がどのように今後展開していくのかを意味します。キャメロン首相の後任者にとっては、分断した世論をどうまとめていくか、その手腕が問われます。

私の自己形成において大きな影響を与えてくれたイギリス。今回の国民投票を受けて、イギリスや世界が落ち着くまでしばらく時間はかかるでしょう。大きな流れの中で見れば、このたびの結果も歴史的変遷を経ての必然なのかもしれません。ただ、イギリスという国がなくなるわけでもありません。一人のイギリス愛好者として、今なお続くイギリス人たちとの交流を大切にしながら、これからも見守っていきたいと思っています。

(2016年6月27日)

【今週の一冊】

「すてきな絵本タイム」 佐々木宏子と岡山・プー横丁の仲間たち・編著、吉備人選書、2012年

イギリスはNHSという国民皆保険制度があります。そのおかげで病院での診察代はすべて無料でした(ただしなぜか歯科だけは有料でしたが)。長男が現地の病院で生まれたときも、出産関連の費用はすべてタダ。入院費も病院食代も無料で、日本との違いに驚きました。「出産は病気ではない」という考えのもと、たいていの母親は翌日に退院していきますし、私の隣室のお母さんなどは数時間休んだだけで帰宅していました。イギリスの場合、退院後数日間は自宅まで看護師や担当医が診に来て下さるのです。

退院後、赤ちゃんの慣れないお世話をする中、往診に来てくださった看護師から「ブックスタート」ということばを聞きました。赤ちゃんがもう少し大きくなって地区の保健センターで健診を受ける際、絵本がプレゼントされるという内容です。私はまだ生まれたばかりの長男をだっこしながら、そのシステムの素晴らしさに感銘を受けました。字も読めない赤ちゃんではあれ、絵本を与えるということ、そしてそれを無償で行っているというイギリスの懐の深さを感じたからです。

今回ご紹介する本を編集した佐々木宏子先生は、40年以上にわたり絵本と子どもの発達について学術的に研究なさっています。日本におけるブックスタートについても先生は研究をされ、論文や書籍などで発表されています。本書は佐々木先生厳選の絵本が紹介された一冊です。

「絵本=子どもが読むもの」と思われがちですが、絵と、そこに記された少ない文字を通じて著者のイイタイコトをとらえるのが絵本だと私は考えています。そういった視点に立つと、通訳の仕事における「話者のイイタイコトの把握」という作業に近いのかもしれません。

今の時代、児童書コーナーに行くとたくさんの絵本があります。本書は、これまでどの絵本が赤ちゃんに愛されてきたかを知ることができる一冊です。本の後半には岡山で文庫活動をなさっている方へのインタビューもあり、大人になっても絵本や児童書と関わり続けることの大切さがわかります。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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