INTERPRETATION

第263回 戦場通訳者

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

放送通訳の現場で出てくるニュースの多くが、紛争地のレポートです。これだけ文明が発達しても、あるいは、あれほどの大戦を経験してもなお、人間は世界のどこかで戦争をしています。オバマ大統領は伊勢志摩サミットの後、広島の原爆ドーム前で演説を行いました。プラハの演説からすでに数年が経っています。それでも核問題や紛争は世界から完全に消え去ってはいないのです。

BBCで働いていたころはユーゴ紛争やコソボ問題、東チモールの独立など、色々な紛争がありました。イスラエルとパレスチナの情勢も緊迫していました。当時、紛争地からたくさんのレポートを届けてくれた中でも、John SimpsonとJeremy Bowenは戦場をメインとするwar correspondentで、特筆すべき存在でした。

日本のニュースを見る限り、戦場を専門とする自社記者はあまりいないように思います。通信社に所属してレポートをするケースがほとんどです。数年前、47歳にしてシリアで命を落とした後藤健二さんも、紛争地をメインとしたジャーナリストでした。BBCの場合、戦場特派員は危機管理の訓練などを徹底的に受けます。有事の際には会社の後ろ盾もあります。しかし日本の場合、BBCやCNNなどと比べると条件面でかなり厳しいのではと私は見ています。

戦場特派員の業務に欠かせないのが「戦場通訳者」です。戦場特派員自身が現地の語学に堪能であれば通訳者は必要ありません。けれども「紛争地での取材はできる」ものの、「現地の言葉ができない」のであれば、通訳者を要することになります。

6月5日のこと。アフガニスタンでアメリカNPRのカメラマンと通訳者が死亡しました。待ち伏せ攻撃を受け、ロケット弾で亡くなったそうです。この報道がきっかけとなり、戦場通訳者についてもっと知りたいと私は思うようになりました。

多くの場合、戦場で通訳者となるのは2つのパターンです。1つ目は特派員と一緒に出国し、取材に同行して帰国まで一緒に働くケースです。たとえばBBCであれば英国籍を持ち、かつ取材国の言語に堪能な人が携わることになります。

もう一つのケースは、取材先でのいわゆる「現地調達」です。その場合、通訳業務だけでなく、現地でのコーディネート作業なども行いますので、英語ではfixerと言われます。

最近の学術書を見てみると、こうした戦場通訳者がどのようなメンタリティにあるのかということや、依頼主からどう見られているかという研究も行われています。マスコミ関係者との同行は短期間ですが、たとえばイラクに駐留するアメリカ軍などの戦場通訳者の場合、アメリカ軍側がその通訳者をどこまで本当に信頼しているのかという課題もあります。現地採用であるがゆえに、軍当局は「現地の通訳者から裏切られるのではないか」という思いも抱いてしまうのです。

一方、戦場通訳者も「クライアントから完全に信頼されていない」という不安に駆られます。と同時に同胞からは「敵に加担する裏切り者」と目されて命を狙われることもあるのです。こうしたことからイギリスでは、アフガニスタンなどで尽力した戦場通訳者だけでなく、その家族の亡命申請をも受け入れるべきだという動きが起きています。

日本にいるとなかなか伝わってこない戦場通訳者たちの境遇。同じ通訳者として考え続けたいと思っています。

(2016年6月13日)

【今週の一冊】

“Routledge Encyclopedia of Interpreting Studies” Franz Pöchhacker (Editor), Routledge, 2015

先週同様、今回もRoutledge社の通訳関連書籍をご紹介します。このたび取り上げるのは通訳学について体系的に説明がなされている、まさに「百科事典」とも言える一冊です。発行は2015年ですので内容も新しく、アルファベット順に通訳関連の用語が詳しく解説されています。編集に携わったのはフランツ・ポェヒハッカー氏。ウィーン大学で通訳学を指導する准教授です。

日本でも書店に行くと通訳関連の本はたくさん置いてあります。最近のエージェントや仕事動向などを知るなら書籍やムック、季刊誌などが頼りになるでしょう。通訳訓練の本も出ています。けれども「通訳」の「学術的」なとらえ方を知るには本書のような一冊が欠かせません。私自身、業務としての通訳行為は長年続けてきましたが、通訳学の歴史や戦時裁判の通訳、社会言語的アプローチや神経科学などからの観点はあまり意識せぬままでした。だからこそ、理論を知ることも大切だと最近感じています。

本書は目次を開くと項目がアルファベット順に並んでおり、1番目のaccentから最終項目のworking memoryまで、たくさんのトピックが網羅されています。たとえば私が携わるmedia interpretingのページを見てみると、定義から始まり、どのような歴史的経緯を経て現在に至っているかが詳しく記されています。世界の中でも放送通訳は日本で大きく進展してきているのですね。本書をひもとけば、そうした情報を参考文献の紹介と共に知ることができます。

本書は通訳を「学問」としてとらえる研究者や学生向けですが、現場で日々、通訳に携わる人たちにも大いに役に立つ内容となっています。本書をきっかけに、現役通訳者が理論と実践を兼ね備えていく。それにより、私たちの職業がさらに発展していくことを願ってやみません。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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