INTERPRETATION

第255回 得意なことは得意な人に 

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳の仕事を始めてから早や20年以上が経ちました。フリーランスで働いていますので、年金や保険などは国管轄のものに入っています。一般企業の保険と比べれば割高ですし、住宅手当もなければ通勤定期券の支給もありません。慶弔時の祝い金もないですし、仕事で使う文具などもすべて自腹です。業務に必要なスーツも靴もカバンも辞書もコンピュータも、何から何まで自分でそろえ、自分のお金で賄うという生活を長年続けてきました。

会社員生活からフリーになった時、周囲からはずいぶん心配されました。「せっかく安定した企業人なのに、収入が不安定になるわよ」「自分が病気になったらどうするの?」「ただでさえ高齢化社会になっているのに、年をとった時どうやって暮らしていくの?」といった質問が投げかけられました。

当時の私は若かった分、「大丈夫、その時になったら考えるから」「何とかなるし、何とかしてみせる!」と答えていました。事実、そう応じる以外自分に選択肢はなかったのです。けれども不安に思ったことは一度もありませんでした。なぜなら、自分が心から好きと思える仕事をできる喜びの方が大きかったからです。

当時の私のロールモデルは、乳がんでわずか40代で亡くなったジャーナリストの千葉敦子さんでした。病が進行していたにも関わらず、あえて日本での生活を捨てて念願のニューヨークに拠点を移し、亡くなるまで現地で精力的に暮らしていたのです。日本のことを英語で海外に発信するという大きな使命を抱いていた千葉さんは、最期までジャーナリストとして勇気ある姿を見せながら生き抜いたのでした。

私自身は英語が好きで、通訳という作業が楽しくて今に至っています。放送通訳の現場では多様な話題が飛び出しますので、予習のしようがありません。けれども新聞を読むこともネットサーフィンをすることも、美術館や映画館に出かけたりすることも、すべていつか自分の蓄積になると私は考えます。日々の生活の中で体験することや見聞することすべてが仕事に結びつくと思えるからこそ、不安定さや不安感よりも喜びの方が大きいのです。

組織にいると、私のような楽観的な生き方では済まされないかもしれません。企業には企業としての方向性があり、人事もそれに基づいて決定されます。時には意に反する配属があることでしょう。それでも文句を言わず、与えられた環境の中で精一杯仕事をすることが組織にいる場合は求められます。私もかつて会社に勤めたことがありましたが、自分にはそうした働き方や組織への帰属が向いていないのだとそのとき痛感しました。ですので、このまま働き続けていては自分もハッピーになれず、そのようなメンタリティの私が組織にいること自体、その会社にとってもむしろマイナスになるだろうと思ったのです。

以来、「得意なことは得意な人に任せる」という考えが私の中では大きな指針になっています。そうすれば本人も幸せに感じますし、それが周囲にも伝染します。本人が意欲的に動けば、それは組織にとってもプラスになるでしょう。私の場合、組織にフルタイムで所属してはいませんが、通訳や教える仕事が好きですので、この分野であればささやかなりともお役にたてるのではという思いがあります。

人間というのは、好きなことであれば周囲から止められてもあきらめないものです。寝食を忘れても取り組めるはずです。幸せそうに取り組む人を見れば、周囲にも明るい雰囲気が伝わってきます。それがさらに周りを感化し、相乗作用を起こしていけるのです。逆に、本人がイヤイヤ取り組んでいれば、周りにも暗い空気が伝わりますし、組織であれば全体的な沈殿に至ってしまいます。

本人が自分の得意分野を自覚すると同時に、組織を率いる者も部下の強みを把握し、そこを伸ばしていく。

それができればどのような組織も飛躍していけるのだと思います。

(2016年4月11日)

【今週の一冊】

「小倉昌男 祈りと経営 ヤマト『宅急便の父』が闘っていたもの」 森健著、小学館、2016年

私には「大好きな組織」がいくつかあります。その会社自体が好きという以上に、たまたま優秀なスタッフの方がその組織に属していたと言った方が正しいかもしれません。ただ、良き社員がいる組織というのは往々にしてその会社全体が素晴らしいと私は感じています。

ヤマト運輸はそうした私のお気に入り企業の一つで、荷物を送る際には多少割高でも利用するようにしています。そう思うようになったきっかけは、我が家を担当するスタッフさんが素晴らしいからというのが一つ。そしてもう一点はクロネコヤマトの生みの親である小倉昌男氏の本をこれまで何冊か読み、その企業哲学に魅了されていることが挙げられます。

官庁と闘ったり、不正に対しては毅然とした態度を示したりという姿から、小倉氏というのは近寄りがたいイメージを持たれています。けれども以前読んだ著作からはむしろ謙虚さや控えめさの方が大きく、実際にテレビインタビューの映像などを見ても、今でいう「カリスマ経営者」からはほど遠い雰囲気の持ち主です。

そんな小倉氏がヤマトを引退した後、なぜ福祉の世界に全力を注いだのかを本書の著者・森健氏は切り込んでいきます。かつてのインタビューで小倉氏は、ただ何となく福祉の分野に身を置くようになったという趣旨の答えをしていました。しかし、もっと本質的な理由があるのではないかと森氏はとらえ、それを探っていったのです。

本書は小倉氏の使命感の、深い或る部分にまで読者を連れて行きます。その内容は、これまでクロネコヤマトのオモテだけを見ていた者にとっては衝撃的かもしれません。けれども私はこの本を読み、精神科医・神谷美恵子先生が心の中に抱えていた使命感に共通するものを感じ取りました。

「小倉昌男」「ヤマト」となれば、書店のビジネス本コーナーに本書は置かれることでしょう。けれども私が書店員であれば、本書を精神医学の棚に置くと思います。「こころ」に関心のある方にお勧めしたい一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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