INTERPRETATION

第254回 目に見える達成感を 

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

デジタル全盛期の今でもあえてこだわって使っているモノがあります。「紙の辞書」と「紙新聞」です。今や混んだ電車の中で紙新聞を広げるのは迷惑行為とみなされてしまうようですので、私も読む場所には気を付けていますが、それでも紙新聞を止められない理由がいくつかあります。

一つ目は「一覧性があること」。どんなにスマートフォンやiPadが発達しても、あの紙新聞を広げた大きさまでスクリーンが巨大化することはありません。それではかえって携帯性の意味がなくなってしまうでしょう。私は自宅で新聞を読む際には食卓に新聞を広げて立って読むのですが、そうすると瞬時にしてすべての記事が目に入りますので、概要を素早く把握しやすいのです。それが最大の利点です。

もう一つは「意外な情報にありつけること」です。「ページの下の方に目をやったら、ふと雑誌広告に気づいた、しかも面白そうな特集が掲載されている」という具合です。その雑誌になじみがなかったとしても、このようなふとした出会いで新たな世界が広がることもあるのですよね。

3つ目は「読んでみたら面白かった」という記事との出会いです。たとえば日頃スポーツニュースに興味がなかったとしても、写真やタイトルが面白くてつい引き込まれて読んだら楽しめた、というケースです。これを機にその分野にどんどん引き込まれることもあります。

以上3点は紙新聞だけでなく、紙辞書も同様です。放送通訳の仕事をしていると、物事を大局観的にとらえて瞬時に同時通訳する必要があります。だからこそ、こうした把握方法にこだわるのかもしれません。

ところで紙新聞と紙辞書でもう一つ私が好きなことがあります。それは「達成感が目に見える」点です。紙新聞であれば、1ページ目から読み始めて最終頁までをパラパラとめくります。するとそれまで空気が入っておらず、くっついていたページ同士が最終頁に到達するころにはほどよくほぐれ、最後のページをめくり終えると、未読の時より新聞紙全体が明らかにふっくらと(?)しているのです。それが私にとって「よし、読み終えた!」という達成感につながります。

一方、紙辞書に関しては私の場合、引くたびに必ず下線を引くようにしています。最近はあえて基礎的な単語も引き直して通読しているのですが、その際にも面白いと思った語義や例文などにはアンダーラインをしています。インクの色にはこだわりませんので、その場にある筆記具で線を引きます。もちろん、物差しなども使わずバッと無造作に引くのですが、その気軽さが私は好きなのですね。

辞書も紙新聞同様、購入当初はページ同士がくっついています。引くたびにページがほぐれてくるとますます引き易くなりますので、辞書を使うのがさらに楽しくなります。おそらく紙辞書が面倒に思える方の多くは、物理的に引きづらいのが原因なのではないでしょうか。

こうして書き込みや下線だらけになってくると、自分の勉強の足跡を目で把握できるようになります。これは何物にも代えがたい達成感です。私の場合、日常生活の中でまとまった時間を勉強に充てることがなかなか叶わないのですが、「ちょっと調べて線を引いた」という蓄積が残っていることは、自分の努力の跡を見るようで本当にうれしくなります。

「今日は体力的にくたびれているなあ」「何となく気乗りがしない」などという日こそ、私はあえて紙辞書を開きます。すると「そうそう、この単語はCNNのニュースに出てきたっけ」と引いたときのことを思い出すのです。今は使っていないペンのインキ跡を見つけると、「これを調べたのはもう1年以上前かも」という具合に、過去のことがよみがえってきます。

このような「目に見える達成感」があるからこそ、学習スピードが落ちても前を向けるのだと私は感じています。

(2016年4月4日)

【今週の一冊】

「戦場カメラマンの仕事術」 渡部陽一著、光文社新書、2016年

カメラマンの渡部陽一さんと言えば、あの独特の語り口でバラエティ番組でもおなじみですよね。独自のキャラで知られていますが、本職は戦場を専門に取材活動を続けるジャーナリストです。その渡部さんがこれまで経験してきたことを文章で表した一冊をご紹介しましょう。

私は自分が放送通訳業という、ジャーナリズムの世界に関わる仕事をしていることもあり、ニュースキャスターやディレクター、新聞雑誌記者、編集職、カメラマンなどに興味があります。私はもっぱら空調の効いた安心安全快適な同時通訳ブースで仕事をしていますが、その大元の素材を見つけて伝えてくれるのは、過酷な現場で活動する記者やカメラマンたちです。

かつて私がBBCワールドで働いていたころ、東南アジアの東チモールで独立運動がありました。インドネシアから分離して国家を新たに作るという動きだったのです。ところが独立と一言で言っても、そう一筋縄ではいきません。様々な利害関係がからみ、衝突もあったのです。その様子を取材していたBBCの現地特派員が、取材中に暴徒に襲われてけがをする事件がありました。その一部始終が映像として伝えられ、非常に衝撃を受けたことを覚えています。

そのような危険と隣り合わせにいるジャーナリストたちがいるからこそ、私たちは世界においてひっ迫している問題点を知り、その解決策を見出そうと知恵を絞ることができるのです。一般市民が何か具体的な改善方法を実施することが今すぐできなくても、「事実を知ることそのもの」が非常に大切だと私は考えます。

本書は渡部さんがカメラマンを志したいきさつから、中東での紛争地を撮影した経験談まで、たくさんのエピソードが盛り込まれています。テレビではひょうひょうとしたイメージですが、実はおびただしい数の古典や名作を読破しています。なぜ本を読むのか、読書を通じて何を感じたのかを知ることもできます。本との関わり方について知りたい読者にもお勧めしたい一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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