第253回 覚悟を決めるということ
通訳者デビューをして間もないころ、とある案件でエージェントからご依頼をいただきました。しかし、いよいよ通訳業務日を翌日に控えた前夜、突然言いようのない不安感に襲われたのです。
理由はいくつかありました。一つ目は私にとって全く初めての分野であったことです。担当者からは事前に資料を頂いており、自分なりに用語集を作ったり、専門書などを読みこんだりと準備をしてはいました。けれども予習をいくらしてもまだ自分は何もわかっていないように思えてしまったのです。
もう一つ不安だった理由は、出張業務であったことでした。それまでも泊りがけの仕事は受けていたのですが、今回の仕事は首都圏からだいぶ離れており、しかも人里離れた場所でした。コンビニもなく、仕事が始まればそこにずっと缶詰状態。当時はインターネットもありませんでしたので、不明点があっても図書館や大型書店に駆け込んで調べることができません。
このようなことから、「やはり私のような初心者にこの仕事は無理なのではないか?請け負うことでかえってお客様にご迷惑なのではないか?」と思えてきたのです。
夜は刻一刻とふけていきます。「今の私のレベルでは絶対通訳などできない。そもそも受けてはいけない案件だったのだ」という感情が一層強くなり、何を思ったのか、私は真夜中になってそのエージェントに電話をかけたのです。こちらの状況を説明して、この業務から外していただこうと思ったのですね。
当時はまだメールもなく、携帯電話もなかったころです。当然ながら、会社の固定電話にかけたところで誰も応対せず、私の「やっぱりやめさせてください」作戦は実りませんでした。翌朝、不安感と逃げ出したい感に押しつぶされつつ、私は指定された場所へ向かいます。ところがいざ業務が始まってみると、私が想像していたよりもはるかに基礎的な内容の会議に終始し、何とか私の予習レベルでも対応できたのでした。
この「事件」を機に私は大きな教訓を得ました。1点目は、「依頼を受けた段階でどう考えても無理そうであれば、そもそも受けてはならない」ことです。もちろんエージェントはプロですので、どの通訳者にどういったレベルの業務を割り当てるかは把握しています。それでも内容を聞いたうえで自分には不可能と思えるならば、勇気をもって断ることも誠意だと私は考えます。
もう一つの教訓は「覚悟を決める」ということです。仕事を受けた以上、とにかく最善を尽くすしかありません。自分が納得いくまで予習を行い、できる限りのことをした上で当日を迎えるしかないのです。請け負うと決めたならば、たとえ当日になっても予習の手を緩めず、不明点は最後の最後まで担当者や講演者に尋ねることが大切なのです。そこまで備えたら、あとは運を天に任せ、ベストのパフォーマンスをめざします。そしてこの仕事で一番大切なこと、つまり「お客様のお役に立つ」という気持ちを強く持って業務終了まで切り抜けるのみだと私は思っています。
覚悟を決めるというのは、良い意味での「あきらめ」とも言えます。業務さなかになってもクヨクヨ思い悩んでしまえば、発揮できるはずの実力も表に出てきてはくれません。努力と覚悟と達観。こうしたものを自分の中でバランスをとりつつ、前に向かっていくのが通訳という仕事だとしみじみ思います。
(2016年3月28日)
【今週の一冊】
「流されて八丈島~漫画家、島にゆく~」 たかまつやよい著、ぶんか社コミックス、2009年
仕事や休暇などでどこかへ出かける際、私は東京・永田町にある都道府県会館へ向かいます。今の時代であればインターネットで情報は手に入りますが、あえて都道府県会館に入居している各県の事務所に行くことが私にとっては楽しみなのですね。会館内にはすべての県がオフィスを構えており、観光パンフレットなども豊富に取り揃えています。地図やグルメマップ、県の広報誌などを一通り頂くとかなりの紙の量になり重くなるのですが、紙の資料には選りすぐりの情報が掲載されています。全体像をつかむにはネットよりも便利だと私は思っています。
さて、今回ご紹介する一冊は、八丈島に移住したイラストレーターが描いたものです。「たかまつやよい」さんというのは、実は「たかまつ」さんという男性と「やよい」さんという女性のユニットで、八丈島に暮らしているのはやよいさんの方です。八丈島に縁もゆかりもなかったのですが、ふとしたきっかけで島に魅了され、移住したそうです。第一巻目となる本書には、移り住むまでのエピソードが描かれています。
私は過日、仕事で八丈島へ行きました。その準備段階として、永田町の東京都事務所で伊豆諸島のパンフレットを頂いたのです。それを読み進めるうちに、「そうだ、八丈島を舞台にした小説やマンガはないかしら?」と思ったのですね。そう思ったときにピンポイントで調べられるのがインターネットの良いところ。早速検索したところ、本書を知ったのでした。
大学生や社会人になりたての頃の私は目が海外ばかりに向いていました。けれども今回本書を読み、実際に八丈島を訪ねてみると、日本にもまだまだ素晴らしい所がたくさんあると感じます。これまで「日本国内の島」として訪れたのは沖縄と江の島(!)ぐらいです。「流されて八丈島」はすでに5冊出ていますので、さらに読み進めてまた近い将来、八丈島を訪問したいと思っています。
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