第252回 ミス・手柄
子どもの頃、私はマンガの「ドラえもん」が大好きで、コミック本で全巻そろえていたほどでした。当時私は父の転勤でオランダのアムステルダムにいたのですが、今のようにインターネットはなく、日本から届く新聞も1週間遅れだったのです。小学校2年生にして日本語の活字に飢える日々でした。ドラえもんの単行本が新発売になるたびに親戚に送ってもらっていたのですが、航空便も高額だったため、いつも船便で1か月以上かかっていましたね。待ちに待った小包が届くと、何度も何度も繰り返し読んでいました。懐かしい思い出です。
「ドラえもんは海外の人にもきっと楽しんでもらえる」と思った私は、当時まったく英語力がなかったものの、自分なりに翻訳しようと考えました。選んだのは「翻訳コンニャク」が出てくるエピソードです。秘密道具のコンニャクを食べれば、口から日本語を話しても目的言語の言葉になって相手には聞こえるという、当時としては夢のような道具でした。辞書を引きながらセリフを英語に直したあのノートは、残念ながら今手元にはありません。度重なる引っ越しで処分してしまったかもしれませんね。今やドラえもんも海外で放映されていますし、あの「翻訳コンニャク」も今日ではスマートフォンのアプリに似たような機能があります。技術の進歩を感じます。
ところでドラえもんと言えば、ジャイアンの有名なせりふがあります。「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」です。のび太が大事にしている物がジャイアンのこの一言で奪われ、挙句の果てに返してもらえず壊されてしまい、のび太がドラえもんに泣きつくという光景は、ストーリーの中で何度も出てきます。今の時代なら学校や教育所轄官庁で大問題になりそうな「いじめ」ですが、私が子どもの頃はこうした子ども同士の争いは珍しくありませんでした。強い子やいじめっ子、そして気の弱い子にいじめられっ子という図式があったのです。「早く大人になりたい。大人にさえなればこんな理不尽なことはないはず」と当時、子ども社会のヒエラルキーに苦しんだ私は真剣に思っていました。
では大人になればバラ色の世界かと言えば、そうでもないのですよね。むしろ大人の方が別の意味で「賢い」ですので、もっと複雑かもしれません。上司と部下の関係にせよ日常生活における人との関わり合いにせよ、そうした悩みはつきもののように思います。
私は大学卒業直後、いくつかの組織で働きました。初めて転職した先は外国人上司と私のみという小さな事務所で、まさに毎日が異文化コミュニケーションでした。文化や価値観の違いなどが理由でその上司と意見が衝突したこともありましたね。けれども今でも上司に感謝していることがあります。それはミスと手柄に対する上司の姿勢でした。
よく言われたのは「最終的な責任は僕がとる。だからサナエはのびのびと仕事をしてほしい」ということでした。小さな事務所ゆえ、総務・経理・翻訳・通訳とあらゆることを任されていたのですが、「自分の判断で正しいことをしてほしい。究極的な責任は代表者である自分が担う」というのが上司のスタンスだったのです。おかげで安心して仕事をすることができました。
もう一つ、その上司は私の仕事ぶりを外部に対して褒めてくれました。私がおこなったのはあくまでも補佐的で、本来であれば上司自身の功績でも、自分の手柄とせず、部下を大切にしてくれたのです。上司とはかくあるべきという見本を私は学ぶことができました。
随分前のこと。雑誌の人生相談にこんなお悩みがありました。「上司の自己顕示欲が強くてついていけない。私が頑張ったことを全部自分の功績にしてしまい、一方で私のささいなミスも公にしてしまう」というものです。こうした上司の元で働くのはさぞ大変とその文章を読んで私は思いました。おそらくその上司自身があまりにも怖い人物で、周りも進言できなかったのでしょう。「裸の王様」状態でありながら、上司本人は気づいていないのかもしれません。
ところで今回このコラムのタイトルを「ミス・手柄」としましたが、ミスコンテストの新部門に「ミス手柄」がお目見えした・・・というような話題ではありません。間の「・」はいくつかの単語をつなぐための点で、区切りの役割を果たします。ことばの仕事をしていると、こうした表記ひとつも大事なのですよね。
【今週の一冊】
「天気予報はこんなに面白い!―天気キャスターの晴れ雨人生」 平井信行著、角川oneテーマ21、2001年
お天気キャスターの平井信行さんと言えば、夕方や夜のNHKニュースでおなじみですよね。学生時代はスポーツにも励んでおられたそうで、私も以前、地元のマラソン大会に出場した際、ゲスト走者として平井さんが走っていらっしゃる姿を見たことがあります。
本書は天気予報について綴った一冊ですが、天気の世界も実に奥深いことがわかる内容でした。10年以上前にBBCワールドで天気予報を同時通訳する際、「良いお天気・悪いお天気」は主観的な表現なので使わないようにと上司から言われたことがあるのですが、本書にはそうした言葉の解説もたくさん出ています。気象予報士やお天気キャスターを目指す方はもちろん、放送の世界に興味のある方に参考となる一冊です。
中でも印象的だったのが「気象予報士が完璧でない理由」という一節でした。通訳の世界同様、天気予報の世界でもどんどん技術は向上しています。スーパーコンピューターのおかげで物理的には優れた天気予報は可能な時代になっているのです。けれども平井氏は次のように綴っています。
「スーパーコンピューターの物理的な計算結果と実際の天気とのズレがあると、気象予報士は過去の統計や地域的な天気特性などに応じて修正する。だが、この修正も完璧ではない。その理由は過去の統計にも当てはまらない天気になることがあるし、経験や研究などにも左右されるからだ。」
これは通訳の世界でも同じですよね。確かに人工知能や自動通訳翻訳機でかなりのレベルの言語変換は可能な時代です。けれども人間の通訳者に「しか」できないことがあります。それは「経験」によって訳出される部分です。ニュアンスの微妙な差などは、人間だからこそ通訳できるとも言えるのです。
平井氏は本書の終わりを次のように結んでいます。
「気象予報士は天気予報を変えることができても、天気まで変えてしまうことはできない。」
通訳者も通訳自体を変えることはできます。クライアントに合った訳出をしたり、場合によっては取捨選択をしてのアウトプットをしたりという具合です。けれども、スピーカーが語ることそのものを変えることはできないのです。また、言葉が本来持つ意味そのものを変更することもできません。
自然を前に謙虚になるのと同様、ことばに対しても私たちはもっともっと謙虚になるべきではないか。そんなことを感じた一冊でした。
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