INTERPRETATION

第249回 最善策を考え続ける

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

随分前に「マーフィーの法則」に関する本がベストセラーになりました。失敗が起こる際、さらに悪いことも付随して起きたり、立て続けに嫌なことに直面したりという様子を指します。

たとえば歩行者用青信号が点滅しているので急いで渡ろうと走り出した途端、携帯電話を道路に落としてしまった、しかもその日は雨上がりで道路が濡れていた、屈んで拾おうとしたら白いコートの裾を泥道に引きずってしまったという具合です。

先日の私も似たようなことがありました。

通勤時に座席に座って眠れたまでは良かったのですが、降車駅に到着した際慌てて立ち上がり、どうやらそこで大のお気に入りのイヤリングを落としてしまったのです。気づいたのはその電車が出発した後でした。ホームから滑り出した電車を横手で見ながら歩きつつ、耳元を触った時です。「あ、落としてしまった!」と思ったときには後の祭り。このピアスはひっかけ型の大判で、首元にスカーフなどを巻いているとその厚みで持ち上がり、ピアスごと外れてしまうことがこれまでもあったのです。以前も何度かそのピアスがなくなりかけたことがありましたが、幸い奇跡的に見つかるということを繰り返してきました。スカーフの中に紛れていたり、運よくコートのポケットに滑り落ちていたりということがあったのですね。

ところが今回は違いました。どこをどう探しても見当たりません。大好きな一品でしたので、片方だけの喪失感は大きいものでした。しかも私の場合、仕事でイヤリングを付けているというのは「お仕事時の制服の一環」的な位置づけとなっています。残った片方だけを付けたままにするわけにはいきませんので両方外さねばならず、そうなると耳周りがスカスカしてしまい違和感を覚えたのでした。

ここから得られる教訓はいくつかあります。

まずは落ちやすいピアスであれば、ストッパーを別途購入して付けるということが最大の落下防止策でしょう。それ以外としては、それこそ数分おきに耳周りを確認するしかありません。特に私の場合、ガンガン外を歩くのが好きですので、歩いている途中であってもピアスの有無を適宜チェックすることが必要となります。とにかく「落とさない」工夫を自分なりに考えねばなりません。

では落ちてしまったらどうするか。

これはもう事実として受け止め、損失そのものへの心のダメージを最大限に食い止めることが求められます。なくしてしまったことを悔やまない、あれこれ考えすぎないということがあって初めて、目の前の仕事にも集中できるからです。

通訳の仕事も同じです。「ああ、あの単語が訳せなかった。どうしよう?」と悔やんでも、じっくりと訳語を練り直すことはできません。翻訳であれば辞書を引き比べたりインターネットで探したりすることができますが、通訳の場合、そうした時間的余地はないのです。訳せなかったという後悔に引っ張られることなく、次にできる最善策は何かを常に常に考えることが必須となります。

同時通訳者の頭の中というのは、訳語選びと瞬発力に加えて「最善策を考え続けていること」なのかもしれません。

(2016年2月22日)

【今週の一冊】

「生きづらさからの脱却:アドラーに学ぶ」岸見一郎著、筑摩選書、2015年

ビジネスや心理学の世界には流行があるということを書店めぐりのたびに思います。数年前にはドラッカーが大流行となり、少し前はピケティが注目を集めました。最近では内村鑑三、アドラー、広岡浅子に関する本が目立ちますよね。テレビドラマや教養番組など、そのきっかけは様々なようです。

アドラーの名前は聞いたことがあり、アドラー自身の本も昔読んだことがありました。けれども今回あえて手にしたのはアドラーの著作をどう解釈したか、専門家がとらえた一冊です。岸見一郎氏はベストセラー「嫌われる勇気」という本で知られています。

「選書」もここ数年で出版社がずいぶん増えました。かつては単行本、文庫、新書がメインでしたが、新書より少し大きいサイズでソフトカバーの選書も最近はよく見かけます。新書よりも専門性が高く、より学術書に近い位置づけになっているようです。

岸見氏によれば、人間が抱く悩みの根本にあるのは「対人関係」であり、その起因となるのは人の持つ「虚栄心」だとしています。人は一人で生きていくことはできませんので、必然的に他者と関わって暮らしていきます。そこに喜びや愛情が生じる一方で、悩みや苦しみも他人との関係から生じるのです。「自分は自分、人は人」と割り切れれば多少の悩みも気にならなくなりますが、自分の心の中に潜む虚栄心が自分を苦しめてしまうというのですね。

悩みにぶつかると私たちはつい過去を振り返り、「あのときああすれば良かった」「あの人がこうしてくれさえすれば」と考えてしまいます。けれどもアドラーの考えに基づけば、過去や生育などはさほど関係ありません。大事なのは「これからどうするか」ということだけなのです。

私の敬愛する慈善活動家・佐藤初女先生は「今、ここが幸せ」と著作で説いておられます。初女先生の考えも、「過去をあれこれ思い悩むのではなく、今を見つめ、これからどう生きていくか」ということなのでしょう。

本書を読んだ第一の感想。それは頭を後ろに振り返らせて過去を振り返りがちなメンタリティに対して、頭をグッと抑えられて「はい、前向いて!」と言われたような感覚でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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