第247回 すべてが学びの対象に
通訳の仕事を始めてからずいぶん年月が経ちましたが、今でも未知の単語に出会うとワクワクします。放送通訳の現場では素早く訳出するため、目はテレビ画面を見つつ耳で英語の音を聞き、同時通訳をしつつ不明単語を電子辞書で引くということもします。そんなあわただしい現場の仕事から一歩離れると、私は辞書をすぐに引くことをあえて控えます。なぜなら「すぐに単語の意味を知ってしまうのは何だかもったいない!」と思うからです。
単語の綴りを見て「こういう接頭辞があるから、医学用語かな?」「この接尾辞から推測すると、職業を表すのかも」という具合に、あれこれ空想するのが私にとっては楽しいひとときなのですね。自分なりに想像力を働かせて考えるという行為そのものが、私にとっては強烈な経験記憶となります。考え抜いてようやく辞書で意味を知ったとき、私は「そうだったんだ!こういう意味だったとは!」というオドロキと喜びで満たされます。単語に出会ってから意味が分かるまでの時間が長ければ長いほど、そして考え抜いていればいるほど、調べたときの正しい語義が私の記憶に残っていくのです。
通訳者や翻訳者、あるいは語学教師など、ことばを生業とする者は「ことばへの愛」があるべきだと私は考えます。過日の新聞報道で中学3年生の全国テストの結果が出ていましたが、点が低い生徒ほど英語嫌いの割合が高いことがわかりました。人間誰でも得手不得手がありますので、万人が英語に熱い思いを抱くことは不可能かもしれません。けれども、教師がことばの素晴らしさや英語にかける熱意を教室で発揮できれば、生徒も感化されるのではないかと私は考えます。しかし今の日本の教育現場を見ると、部活指導や事務処理、保護者対応など、授業以外の仕事に現場の小中高教員たちは直面しています。タブレット端末の導入やオール・イングリッシュなどももちろん大事でしょう。けれどもまずは体力ギリギリのところで仕事をしている現場の先生方が、本来の「指導」に集中できるような施策を行政はとるべきだと私は思います。
話を「ことば」に戻しましょう。
日本にいる限り、普段から24時間英語漬けという環境の人はそう多くありません。家族が英語圏出身であれば話は別ですが、大半の日本人にとっての日常生活は「英語を話さなくても済む環境」です。私自身、よほど意識して英語に触れようと思わない限り、どんどん英語力は退化していきます。放送通訳の仕事も英語から日本語への一方通行の訳出ですので、自分で英文を書いたり、英語で話したりという作業を意識的にしていく必要があります。
そのような中、最近凝っているのは「商品パッケージ」の英訳です。と言っても、あまり厳しく体系的に取り組んでいるわけではありません。パッケージに書かれているキャッチコピーを自分ならどう英語に直すか考えてみるにとどめています。たとえば、あるコーヒーには「ふくよかな味わい」とパッケージ上にありました。私にとって「ふくよかな」というのは「肉体的にふっくらとした」というイメージの方が強かったので、新たな日本語の用法を知ることとなりました。一方、このフレーズから味わいと味の違いも気になりました。こうして一つのキャッチコピーから様々なことを考えて調べてみるのです。
他にも食品パッケージを見ると「深い香り」などといったフレーズがあります。これなども「香り」を和英辞典で引くとaromaやscent, perfume, smellなどが出てきます。そこでそれぞれの用法を読むと、食べ物、特にコーヒーやワインであればaromaを使うことがわかります。smellは悪臭というニュアンスがありますものね。
「一粒で300メートル」「1粒で2度おいしい」「やめられない、とまらない」「お口の恋人」など、日本には多様なキャッチコピーがあります。日本語の場合、主語がなくても誰が主体なのか私たちはわかりますが、これを英訳する場合は主語と動詞を明確にせねばなりません。これらを自分なりに翻訳してみると、なかなかchallengingであることがわかります。
このような具合に辞書をあれこれ引いたり、色々と考えたりしながら、私はことばの世界を楽しんでいます。すべてが私にとって学びの対象です。
(2016年2月8日)
【今週の一冊】
「いじめられっ子のチャンピオンベルト」 内藤大助著、講談社、2008年
内藤大助さんと言えば私にとっては某住宅メーカーのCMという印象があります。実はあまり格闘技をテレビなどで見ないので、そちらでの活躍は存じ上げていなかったのです。けれどもNHKの「ラジオ深夜便」で内藤さんがインタビューに応じているのを聞き、そのお人柄にすっかり惹かれたのでした。
本書には内藤さんの生い立ちから現在までが描かれており、読み進めるとなぜボクサーになったのかがわかります。実はボクサーになったきっかけは中学校時代のいじめだったのでした。肉体的にも精神的にもズタズタにされるという北海道時代の記述は壮絶です。上京しても心の傷は癒されず、何とかしようとボクシングジムの門を叩いたそうです。
その後、結婚もしてお子さんも生まれ、本人の努力がようやく報われます。世界チャンピオンの獲得です。アルバイトで家族を養いつつ練習に励み、紆余曲折を経てきた様子は淡々とした文章ではあるものの、読む者の心を動かします。「ラジオ深夜便」での受け答えは実に温厚で、本当に苦労した人ほど、控えめになる様子が感じられました。
本書の最後には次のように綴られています。
「センスのある人間は、たとえ教えてもらっていない技術でも、なんとなくの感覚で自分のモノにしてしまう。
でも、僕にはそれができない。だから、見て、覚えて、考えて、一つひとつをモノにしていくしかないのだ。今までずっと、そうしてやってきた。
自分には、そうしたセンスがないから努力するしかない。」
どんな世界でも真剣に生きていくためには本人の努力が不可欠です。才能やセンスよりも、とにかくコツコツと努力することの大切さを本書から私は感じ取ったのでした。
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