INTERPRETATION

第245回 だしと紙辞書

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

前回のこのコラムでは、日常生活、とりわけ家事で私なりに工夫しているポイントを10項目お話しました。人間というのは不便になればそれなりに知恵を出すものなのかもしれません。ちなみに英語でsapientという語がありますが、これは「知恵のある」という意味です。「人類」の「ホモサピエンス」は英語でHomo sapiensと書きますが、これはラテン語が語源で「賢い人」ということです。ヒトには賢さや知性が備わっているからこう呼ばれるのですね。

さて、自分なりに工夫をするようになると、工夫そのものを考えることが楽しくなってきます。「ああかな?こうなるかな?」と結果を想像しつつ、試してみる工程が実験のようで面白いのです。今の時代は何事もめまぐるしい速さで動いていきます。かつてコンピュータが出回り始めたころは、漢字変換も今ほど速くありませんでしたし、記憶媒体に保存するにも時間がかかりました。昔の電話はプッシュホンではなくジーコロジーコロとダイヤルを回すタイプで、ダイヤルが元に戻るまで数秒を要しました。外食産業も発達しておらず、ファストフード店もコンビニも存在しない時代が昔は当たり前だったのです。

技術や科学が進歩することで私たちの生活は大いに便利になりました。格安でモノやサービスが手に入るようになり、忙しい人にとってはありがたい時代になっています。けれども、お金を昔ほど費やさなくてもそこそこのものが手に入るということは、恵まれているようでいて打ち上げ花火のごとく思えます。あっという間に幸せ感も消えてしまうように私は感じるのです。

私は紙辞書が好きで、今でも家では「ジーニアス英和辞典」の紙版を愛用しています。CNNの同時通訳のさなかは瞬時に訳語を必要としますので電子辞書を使いますが、家ではのんびりとページをめくりながら他の単語に目をやりつつ目的の語を引くのが楽しいのですね。寄り道が許されること、思いがけず新しい語に出会えることなどが私にとっては喜びです。もちろん、ピンポイントで訳語を早く知りたいという気持ちがないわけではありません。英文を読んでいる途中で辞書を引いた際には迅速に意味を知りたいとむしろ思います。けれども、はやる気持ちをおさえて目的への道のりそのものも味わいたい気持ちもあるのです。

私が尊敬する教育者の佐藤初女先生は、食を通じて悩める心を持つ人を受け入れ、痛みを共有する活動をなさっています。初女先生はおむすびや日本の伝統食を人々に差し上げて心を解きほぐしていらっしゃり、料理に関する本もたくさん出しておられます。

その初女先生がだしの取り方について記した一文があったのですが、丁寧にだし作りに向き合う様子がそこからはうかがえました。梅干し作りも同様で、ひとつひとつの粒を大切にいつくしむ様子が描かれていたのです。多忙な生活を営む人であれば出来合いのだしスティックや既製品の梅干しは大いに助かるアイテムでしょう。けれども「作ることそのもの」を味わえれば、人はそれだけでも幸せになれると私は感じています。

だし取りと紙辞書。一見かけ離れていますよね。けれども自分が向き合っていることそのものを大切に思う心があれば、慌ただしい毎日も幸せに満ちたものになるように思います。丁寧に暮らしていこうという気持ちになります。

(2016年1月25日)

【今週の一冊】

「学校って何だろう―教育の社会学入門」 苅谷剛彦著、ちくま文庫、2005年

ロンドンのBBCに勤めていたころは、ずっと放送通訳の仕事で生きていきたいと思っていました。ところが人生というのは何もかも計画通りにいくとは限りませんよね。我が家も家族が増えたり雇用形態が変わったりしたことにより、イギリスの永住権をあっさり手放して帰国しました。2002年のことです。

帰国後しばらくは夫婦そろって失業状態。義父母の優しさに甘えて居候していたのですが、下の子が生まれることもあり、思い切って家族で独立したことが仕事を見直すきっかけになりました。幸いCNNの放送通訳の仕事をいただけるようになり、現在に至っています。

それと同時に考え始めたのが、次世代の育成です。今は通訳養成所で後進の指導に当たるほか、大学生にも教えています。通訳学校の場合、通訳者を目指して自費で来る受講生が多いのに対して、学生の場合はバリバリのプロを考えているとは限りません。指導相手によって授業内容にも工夫が必要であると痛感しています。

授業はどうあるべきか、そもそも大学や通訳学校という教育機関は何を意味するのか。そのようなことを今学期は考え続けていました。そこで出会ったのが本書です。

著者の苅谷教授は現在オックスフォード大学で教鞭をとっておられます。本書は中学生向けの新聞コラムをまとめたもので平易な文章ですが、一方的に「答え」を著者が提示するものではありません。むしろ全体を通して問いかけがなされており、読者はその問いを自ら考え、答えを探し出すという構成になっています。

入試や義務教育の定期テストのように「答え」があるものもあれば、人生論や哲学などのように「絶対的な正解」がないものもあります。私たちはあまりにも「解あり学習」に慣れてしまったために、ついつい「正しい答え」を探してしまうのではないでしょうか。ゆえにダイエットでも英語学習でも次々と新しい方法が登場し、私たちは「今度こそこの方法さえやれば!」と期待してしまうのです。

「答えがないことが答えなのだ」と考えれば生きることも楽になります。「学校とは何か?」を本書の問いかけを通じてじっくりと考えることによって、「答えがなくても間違いではない」という安心を抱けた、そんな一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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