第241回 診察から感じたこと
本コラムも今日が2015年では最後の回となりました。今の時期というのは多くの方がこの12か月間を振り返るのではと思います。私もクリスマスあたりから、2015年がどのような年だったかを顧みる日々が続いています。
不思議なもので、日々の仕事や日常生活の中に身を置いていると、その渦中に「わあ、大変!」と思えたことも、なぜか月日と共に記憶が薄らいでいるのですね。年頭から今まで「忙しい~」「どうしよう!?」と心の中で思っていたこともあったはずなのですが、今となっては今一つ思い出せないのです。人間の記憶力には限界がありますので、新しいことが入ってくると古いものは外に出てしまうのでしょう。そして強烈なことだけがふるいにかけられて残っていくのかもしれません。そこが人の記憶力の長所だと私は思っています。コンピュータのメモリのようにすべてのことが正確に記憶され、それがいつでもどこでも「はい、どうぞ」と言わんばかりに提示されたら却って困りますよね。
放送通訳現場では、訳語が出てこずに戸惑ったことももちろんありました。時間で見れば1,2秒だったのかもしれませんが、自分にとっては数十秒の沈黙に思えて焦ったことも数知れません。そして何よりも大きかったのは、11月下旬から見舞われた「声のかすれ」でした。
声を出す仕事に携わる人間にとって、声の異変というのは困ってしまう事態です。当初は「授業で大声を出しすぎたかな」という程度に思っていたのですが、12月中旬になっても改善されず、不安が募りました。
このような時、私が考えるのは「今、自分にできる最善策は何か?」ということです。不安なときほど「どうしよう?もしこのまま声が出なくなったら?」などと悪い方へ考えがちになります。けれどもそれでは一歩も前には進めません。まずはプロに診ていただくことが最善策ですので、私は迷わず病院へ行ったのでした。万が一何か深刻な病気であれば、早め早めに関係各方面へ連絡し、対応策を考えなければいけないからです。
ところで「病院」と言っても、患者との間の相性は大切だと私は考えています。どんなに名医と言われる先生でも自分との感性が合わなければ、治す気力も湧いてこないと私は思うのです。ですので、自分と先生の波長が合うこと、価値観などが共有できることが治療の上ではとても大切だと私は感じています。
最初の病院でのこと。診察室に案内された私を待ち受けていたのは、コンピュータ画面に私の問診票内容をひたすら入力する医師でした。最近はどの病院も電子カルテになっていますので、先生自身が診察もして画面入力もしてと本当に忙しくなっています。画面に文字を打ち込む際には両手でキーボードを打たねばなりませんので、どうしても顔や姿勢が画面に向かってしまうのです。
その日のこと。結局先生と目を合わせられたのはしばらくたってからで、問診票に基づき私はファイバースコープを両鼻から入れてもらい、のどの状態を診察していただきました。結果は「異常なし。おそらく生活習慣ゆえでしょう」というものでした。
「良かった、何事もなくて」とまずは一安心だったのですが、その後数日しても事態は良くならないばかりか、余計声のかすれがひどくなっていきました。それで私は別の病院へ出向いて診ていただくことを選択したのです。ファイバースコープという最新技術の結果も大事ですが、もっと人間的な診察を自分自身が好んでいたからです。
新たに向かった病院は受付のスタッフも感じがよく、「1時間ほどかかりますので、それまでいったん外でお過ごしになられても良いですよ」という指示を受けました。ありがたく外で用事を済ませて戻るとほどなく診察時間となり、担当医が笑顔で迎えて下さいました。問診票に基づき口を開けてのどを見たり、リンパも触診で確かめたりと、技術だけに頼らない診察を私は受けられたのです。幸いなことに特に異常はありませんでした。ちなみに声というのは年齢と共に変化していくものなので、日頃から温存することも大切だというアドバイスを私はいただきました。
世は機械翻訳に自動通訳機と、技術の革新は医学や通訳を始めあらゆる分野で進んでいます。けれども私のように、専門家自身の経験や人間的なもので対応していただけたらという思いを抱いている人もまだまだいるように感じます。今回受けたヒューマンな診察は通訳現場でも応用できると思います。その気持ちを大切にしていき、来年も社会のお役に少しでも立てればと考えています。
みなさまにとって2016年が素晴らしいものとなりますように。
(2015年12月28日)
【今週の一冊】
「井上ひさしの読書眼鏡」 井上ひさし著、中公文庫、2015年
以前の私はかなりの乱読派でした。仕事の後に気分転換もかねて大型書店へ直行。上から下まですべてのフロアの棚を見歩きながら過ごすというのが至福の時間だったのです。気になる本、具体的には「棚から取り出した本」はすべて「ご縁」と考え、店内のカゴへ入れ、まさに「大人買い」の王道を行っていました。そのあとはカフェに入り、買ったばかりの本をパラパラとめくるのが楽しみだったのです。かなり本は増えてその後片づけに苦労しましたが、当時の私のライフステージにおいてはあれが最適だったと今は感じています。
一方、現在はどうかと言いますと、一冊を読み終えてから次の本を買うことにしています。これは本が激増した結果、読む速度が追い付かなくなり、心に負担となっていったからです。本来自分を幸せにしてくれる読書生活が、「早く読め読め」と言わんばかりにせっつく道具になってしまっては本末転倒です。そこで「読了したら次の本を買う」という鉄則を自分に設けたのでした。もちろん、読み始めたものの今一つ相性が合わなければその場で読むのを止めます。ただ、本を購入するのは前の本を読むことを止めた後です。こうすることでずいぶん書棚はすっきりとしましたし、「読まなきゃ」という切迫感からも解放されました。
5年前に亡くなられた井上ひさしさんは多くの作品を残しています。特に日本語の行く末についても色々と考えを抱いており、そうした内容が戯曲にも反映されています。仙台文学館は井上ひさし氏がその設立に尽力しており、氏の直筆原稿も展示されています。数か月前に私は出かけたことがあるのですが、氏の日本語に対する熱い思いを感じることができました。
本書は井上氏がお勧めする本がエッセイ形式で掲載されており、どこからでも読むことができます。中でも面白かったのが「現代英米情報事典」(研究社出版)の紹介。ノックを何回するかというのも文化により異なるのですね。ちなみに英米の文化では郵便配達人は2回、電報配達人は3回で、家族などは5回ノックするのだそうです。日本ではたいてい2度ですので、「コンコンコンコンコン!」と5度もたたかれると何だかせっつかれているようにも思えてしまいます。これも文化の違いです。
書籍の後半にはロシア語通訳者・米原万里氏についてもつづられています。米原氏の実妹が井上ひさしさんの奥さまなのですね。通訳の仕事に興味がある方にとっても、今回ご紹介する本は読み応えがあると思います。
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