INTERPRETATION

第238回 自分に同じことができるかどうか

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

今年1年も残り数週間となりました。この12か月を振り返ってみても、放送通訳現場では例年同様、事件や事故の多いニュースが続きました。私はニュース通訳の映像で出てくる悲惨な映像は見ていても大丈夫なのですが、映画の予告やテレビドラマに出てくる血の多いシーンや手術の光景などは直視できません。家事でかすり傷を負ったり、職場のコピーペーパーで指を切ってしまったりして血が出てきたときも動揺するほどです。ニュース現場ではおそらく通訳することに必死であるため、映像をそのまま見られるのかもしれません。

さて、私は大きな事件・事故が起きると日本のニュースもチェックします。報道の観点の違いや、日本とそのニュースの関わりを知るためです。

日本のニュースは模型を使ったり、専門家をスタジオに招いたりするなどして、視聴者にわかりやすい構成となっています。欧米のニュースは原稿の読みも早く、テンポもどんどん進みます。同じ30分ニュースでもCNNやBBCなどの方が大量の情報が入ります。日本はあくまでも視聴者の理解に合わせた作りです。

そうした部分はとてもありがたいと思うのですが、その一方で私が違和感を抱く点もあります。それはキャスターが適宜個人的意見を挟むことです。おそらくこれは昔からの慣習であるため、今となっては「そういうもの」という気もします。ただ、そのニュースが広く国民に視聴されている場合、キャスターが世論を大きく動かせるほどの影響力を持っていることも否定できません。

そんなことを考えながら日本のニュースを見ていてふと感じたことがありました。それは私自身、そのキャスターの是非を頭ごなしに下しているのではないか、と。

日本には思想の自由があり、報道の自由があります。何をどう考えるかはそれぞれの自由であり、他人に危害を加えたり法を犯したりしない限り、その自由は保障されています。ただ怖いのは、その「自由」があるがゆえに、人はつい他者を判断してしまうことだと思うのです。

「政治家のやっていることに異議がある」「あのキャスターの意見には同意しかねる」という具合に、私たちは自分の意見と異なるものに対して抵抗感を抱きます。けれども、「じゃあ、自分には何ができるのか?」と自問自答すれば、大きなことなどとてもできません。そのための行動力も資金も周囲の協力体制も持っていないことに気づかされます。

以前、電車の中で騒がしい乗客たちと乗り合わせたことがありました。その日私は仕事の準備を車内でしようと思い、わざわざ座席を確保して取り組もうとしていたのです。けれどもとても予習どころではありませんでした。その時私の目の前にあった選択肢は「我慢する」「相手を注意する」「その場を離れる」の3つしかなかったのです。我慢した場合、波風を立てることは避けられますが、とても自分の仕事はできません。一方、その場を離れることもできましたが、せっかく確保した座席をあきらめ、混んだ別車両に行くことになります。それでは予定しているペースで仕事も進まないでしょう。相手を注意することもできたとは思いますが、果たして説得できるかどうか、周囲に不快感を与えずに済ませられるかどうか、自信はありませんでした。

先のニュースに話を戻しましょう。キャスターの言動や政治家の態度など、私たちは門外漢として物事を見ると、相手に言いたいことが何かと出てきます。けれども注意しなければならないのは、「じゃあ、あなたが代わりにやってごらん」と言われた時、堂々と受けて立てるかどうかなのです。

そのニュースキャスターと同じレベルで仕事ができるか。つまり、カメラの前に座って間違いなく原稿を読み、突発事態にも対応できるか。時間管理をしっかりと行い、CMにかぶらないよう話をまとめられるか。政治家であれば、長時間労働に選挙や地方訪問など、肉体的・精神的疲労を厭わず仕事をできるか。自分の資産も家族構成も年齢もすべて公開され、匿名の一国民としてではなく「公人」として一生を捧げる勇気があるかどうか。そうしたことまで考える必要があると私は思うのです。

日常生活でも同じことが言えます。「あの店員さんは仕事が遅い」「この教員は教え方が下手」などなど、批判はいくらでも簡単にできます。けれども「じゃ、自分は?」と自問自答してしまうと、そうやすやすと批判はできないと私には思えてきます。だからこそ、他者の立場に立ち、謙虚に物事を受け止めなければいけないと考えています。

(2015年12月7日)

【今週の一冊】

「内村鑑三所感集」 鈴木俊郎編、岩波文庫、1973年

本を読む醍醐味はいろいろありますが、私にとってうれしいのは、以前別の本に出てきた人名や項目と再会できること。今回ご紹介する内村鑑三の本には、前田多門の名前が出てきました。前田多門は1945年から46年にかけて文部大臣を務め、その後東京通信工業(のちのソニー)の初代社長にも就任した政治家・実業家です。私にとっては精神科医・神谷美恵子先生の父君として印象に残っています。

その前田多門が師事したのが宗教家の内村鑑三。「内村鑑三所感集」には、クリスチャンとして内村が何を考え、どのような説教を信者たちに説いてきたかが綴られています。年代・月別に小文が掲載されているため、どこからでも読める一冊です。

この所感集が始まるのは1900年、明治33年です。当時の内村は40歳。終わりは大正6年の1917年、内村57歳の時でした。第一次世界大戦に向けて不気味な機運が高まる中、内村は平和を願い、それを人々に理解してもらいたいと考えます。どの文章を読んでも、内村の穏やかでいながら強い信念が伝わってきます。

印象的な個所はいくつもあり、線を引きながら読み終えてみると、印でいっぱいになりました。中でも次の文章が心に残っています。

「何事も憤怒に駆られてなすべからず、何事も競争のためになすべからず。(中略)常に喜ばしき、かつ平穏なる心をもってなすべし。」

心を落ち着けて平静の気持ちで何事にもあたる大切さを、この文章から改めて私は感じます。今の時代、周囲は常にあわただしく、人々は正解を求めて苦心します。英語学習にせよ健康法にせよ、Aという方法が世に出れば皆がそれを追いかけ、Bという術が登場すれば一気にそちらになびいていく。それに追いつけなくなると人は落ち込み、疲弊し、癒しを求める。そんな世の中のように思えます。

生き延びるために憤怒は不要です。競争も、必要ないならば求めることはないでしょう。静かに目の前のことを大切にして生きていくこと。そのことをしっかりと心に留めて残り少ない2015年を過ごし、次の年へと結び付けたいと私は考えています。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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