第236回 基準値を低く
特に元気がないときなど、私は書店へ出かけます。本棚の間をじっくり歩くと、世の中には色々なテーマがあることに気づきます。何気なく手にした一冊が大きな出会いになることもあります。深刻な世界情勢に関する本をめくれば、自分の置かれた状況がいかに恵まれていることかと思わされます。
一方、前向きなエネルギーが欲しいときは、頑張っている人の本をのぞきます。ビジネスで成功した人、スポーツ選手の自伝などはまさにそうした心境のときにぴったりです。伸び悩みや挫折、ケガや事故、病気など、成功した人の人生にも大変なことが起きているのです。「生きる」とは、誰にとっても苦楽が与えられることなのでしょう。
物事がうまく行く人の共通点として挙げられるのが、夢や目標設定です。自分が目指すものをじっくりと考え、それを大きな目標として掲げる。そこから逆算していつまでに何をすべきか考える。中間目標や短期目標も作り、日々やるべきことを書き出す。そうすることで、自分が今、取るべき行動が把握できます。そしてあとは計画を着々と進めていけば、目標に到達しやすくなるのです。
私も通訳者を目指していたころ、このようなスタンスで臨んでいました。いつまでにデビューしたいか、どういった通訳分野に携わりたいか、そのためにはスクールに通ったり自力で勉強したりと色々な課題を考えました。集中的に学習した結果、通訳現場に立てるようになったのは、本当に恵まれていたと思っています。思えばその頃は趣味もお預けにしていましたね。
むしろ「通訳者になる」ということそのものが至上命題だったのかもしれません。
一方、最近の私はどうかと言いますと、自分にとってのギラギラ期は一段落したように思います。通訳者としてさらに高みを目指すということ以上に、次の世代に対して自分に何ができるかを考え続ける日々となっています。英語を学ぶ楽しさ、世界について知ることの大切さなどをどうすれば若い人々に伝えられるかを考えているのです。
世界情勢に目を向けるきっかけとなったのは、放送通訳者の仕事でした。「幼少期や大学院で過ごしたイギリスにもう一度暮らしたい!」という単純かつ熱い思いがロンドンのBBC勤務へとつながりました。放送通訳経験は皆無でしたが、「とにかくこの仕事をしたい(=イギリスに暮らせる!)」という熱意だけで採用されたのかもしれません。それでもBBCの仕事は私の人生で大きな転機となりました。
ニュースというのは時々刻々と変化します。通訳する内容のほとんどが紛争や伝染病、事故や事件など暗い話題です。4年半の勤務中、毎日毎日悲しいニュースや目を背けたくなるような悲惨な映像を見てきました。それでも、歴史的な和平合意などのニュースにも携わることができました。そうした未来志向の話題がせめてもの救いでした。
今も私はCNNやCBSの放送通訳をしていますが、ニュース内容というのはほぼ変わりません。むしろ自然災害や銃乱射事件にテロの話題などは昔より増えたように感じます。ハリケーンや地震、銃撃事件などのたびに「再発防止」という声が上がります。それでもなお、すべてを防ぎきることはできません。しばらく経つと、また同様の話題が画面に出てくるのです。
そうした日々を送っているためか、私の場合、日常生活での基準値は極めて低くなります。
電車が遅延しても「それでもすぐに復旧するから素晴らしい」、道路工事で大渋滞に遭遇しても、「まあ、待てばそのうち動くでしょう」と考えます。夜、駅から徒歩で帰宅して我が家の暮らすマンションを見上げると、子ども部屋の電気がカーテン越しに漏れています。それを見るだけで、「ああ、今日も子どもたちは無事に帰ってきてくれた」と心からありがたく感じます。世界には「スクールバスに乗っていて襲撃された」「道路を歩いていた子どもが誘拐された」といったことが少なくないのです。そう考えると、今の自分の境遇は奇跡のようにさえ思えてしまいます。
壮大な夢や目標を抱くのも一つの生き方です。けれども、成功者ばかりに目が向いてしまうと、自分がみじめに思えてしまいます。上と比べれば自分の方が劣っているのは明らかだからです。
ではどうするか?
これはただただ、自分の基準値を低くし、そうする自分を赦し、自分が恵まれていることに感謝するのみだと私は考えます。それこそが、日々穏やかに平静の心を持って生きることにつながると思うのです。
(2015年11月16日)
【今週の一冊】
読書というのは実に興味深い行為だと私は思います。私の場合、意気込んで本をたくさん購入して喜び勇んで家へ帰ることもよくあります。ところが買ったことそのものに安心してしまうのか、帰宅後は積読状態ということも少なくありません。そのまま何日か経ち、さあ読んでみようと思いきや、「はて、なぜこの本を買ったのだろう?」と思うこともあるのですね。人間の関心というのは移り変わるものですので、購入時という「過去」と、今を生きる「現在」ではあっさりと気持ちも変化しているのでしょう。
その一方で、永遠のテーマのように自分の心の中でずっしりと存在するものもあります。私の場合、「使命感」ということばがそれにあたります。自分は何のために生きるのか、社会にどのような形でお役に立てるのか。そのようなことを社会人になってから考え続けています。
私自身、まだ答えは出ていません。ひょっとしたらこれは生きている限り、大きな宿題として自分に与えられたものなのかもしれません。いずれにせよ、考え続けることに意義があるのだと最近は思うようになっています。
今回ご紹介する「天命」は作家の五木寛之さんが書かれたものです。表紙には曼珠沙華の絵があります。書名と表紙絵もこうしてつながっていることを改めて感じます。
五木氏自身、生きるという大きなテーマへの答えを明確に出しているわけではありません。ただ、終戦後に朝鮮半島から引き揚げてきた経験や肉親の死についてなど、苦しい体験談を本書では綴っています。第二次大戦後、無事日本に帰国できた者がいる一方で、無実の人々が何人も亡くなっていることについては、心の優しい人ほど他者を優先し、自らが犠牲になったと記していました。生き延びるにはもちろん運の良し悪しもあるでしょう。けれどもそれ以上に、生きようとする執念や、むごいまでの行動も背後にあることを私たちは忘れてはいけません。それも人間の「動物としての本性」なのです。
「世の中には、事実として不公平というものはまず前提的・絶対的につきまとうものだと、私は考えます。どんな体制であろうと、不公平がなくなることはこの世界にはない、と思うのです。」
五木氏のこの一文を読むだけでも、今の中東情勢や難民問題、紛争や飢餓、伝染病などを思い起こさせます。身の安全を保障されたこの日本に生きる私たちは、そうした事実があることを認め、自らの問題として「考え続けること」が求められる。そう私は思っています。
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