第234回 次のライフステージがあって良い
随分前のことです。「通訳者になりたい」と思い立った私は、レベルチェックテストを経てある通訳学校に入学しました。当時は英会話ブームでしたが、私は単なる会話だけでなく、もっと自分に厳しい授業を課してくれるようなスクールを探していたのです。通訳者として生きていきたいと思っていたこともあり、入学許可が下りたときは本当にうれしかったですね。「よし!仕事と両立させて絶対にデビューする!」と意気込んだ私は、嬉々として初回の授業に臨んだのでした。
幼少期の海外経験もあったことから、ある程度自分の英語は「まあ使い物になる」という根拠のない自信だけはありました。ところが通訳学校というのは単に発音が良いだけでは済まされません。社会人として知っておくべき一般常識を始め、医学や宇宙、経済学など専門分野も授業ではたくさん出てきました。それらの知識が全くなかった私にとって、通訳スクールの授業はやがて苦行のようになっていったのです。毎回の単語テストに復習予習など、おびただしい量の課題についていけなかったのも苦しみの一因でした。
それでも何とか順当に進級したのですが、上のクラスに到達して大きな壁にぶつかりました。それは「先生との相性」です。今の自分であれば、先生の指導理念が厳しい授業でのコメントになっていたのも理解できます。けれども当時の私は若さゆえの反発心があり、「この授業にはついていけない」と思うや、さっさと辞めてしまったのです。他校舎の他コースに転籍もしましたが、家から遠くて通うのが面倒になり、そのままフェードアウトしたのでした。
小中学校における義務教育の場合、どれだけ授業が自分の関心事と離れていても、きちんと出席して試験を受けなければ卒業できません。けれども大学生や大人の学びというのはもっと自主性が尊重されます。もちろん、大学でも所定の単位数を取って卒業できるわけですが、最終単位数の帳尻を4年間で合わせれば学位自体を取ることはできます。選択科目で自分の予想外の授業を取ってしまった場合、「我慢して受講して単位を取る」か、「単位はあきらめて空いた時間を有意義に使い、その分の単位は翌学期以降に別科目で取り返す」ということもできるのです。
スクールや大学の授業の場合、最初は意気込んでそのクラスに参加したということもあるでしょう。民間スクールであれば、その先生が好きで継続受講に至ったケースも考えられます。けれども人間というのは常に成長するものです。「先生は好きだけれど、もっと他にやりたいことが出てきた」という思いが湧き出ることもあります。そうであれば、自分の本音や先生に妙な遠慮は必要ないと私は考えます。むしろ限られた時間をどう幸せに生きるかが、間接的ではありますが、先生やそれまで学んできた学問への「恩返し」だと私は思うのです。
生きている限り、私たちは常にさまざまな刺激を受けます。そこからあるきっかけを得て、思いがけない方向に人生が向かうこともあるでしょう。それこそがその人にとっての「次のライフステージ」です。せっかく到来した新しい道なのです。過去に引きずられず、勇気をもって一歩を踏み出すことが、さらに人生の質を高めてくれると私は考えています。
(2015年11月2日)
【今週の一冊】
「死をどう生きたか – 私の心に残る人びと」日野原重明著、中公文庫、2015年
私が日野原先生の文章に出会ったのは大学生の頃です。確か朝日新聞でした。小さなコラムの冒頭で先生は「よど号ハイジャック事件」の飛行機に搭乗していたと綴っていました。犯人たちは機内に立てこもっている間、持参した書籍を希望する乗客に貸し出そうとしたものの、唯一挙手をして借りたのが日野原先生だったそうです。その時先生が赤軍派から手渡されたのが「カラマーゾフの兄弟」でした。
先生の別の書籍でもよど号事件のことが述べられていたのですが、先生はこの事件に遭遇するまでは、どちらかと言うと医師としての自分のキャリアが優先していたのだそうです。しかし、ハイジャック事件から無事生還したということに意味を見出し、以後、他者のために自分の人生を使うべきだという気持ちを強く抱いたとありました。
今回ご紹介する一冊は、日野原先生が医師として様々な死に立ち会う中、何を感じてきたかを記録したものです。医師になりたての頃に遭遇したある少女の死、ベテランになってから看取った芸術家や政治家など、目次を見ると日本の歴史を築き上げてきた著名な方々のお名前も並びます。
私事で恐縮ですが、私は先日、最愛の伯母を失いました。私にとっては慈愛に満ちた優しい伯母でした。常に感謝の心にあふれ、自分よりも他者を第一に思う、そんな女性でした。葬儀の際、伯父や従兄弟たちに話を聞くと、苦しい闘病生活に耐え、残してゆく家族に感謝の言葉を口にしていたそうです。また、病院の先生や看護師さんたちにもそうした気持ちを表していたと聞きました。中でも印象的だったのは、病院食に毎回付いてくる献立カードの裏に調理師さんやお膳を運ぶスタッフさんへお礼状を綴っていたことです。筆まめの伯母らしいと思いました。
その伯母にもう会えない、手紙のやりとりもできないというのは私にとってさみしい事ではあります。けれどもお通夜や葬儀に参列して伯母を見送り、さらに日野原先生の本書を読むにつけ、寂しさよりも伯母の残してくれた深い愛を大切に生きていこうと思えるようになったのです。
「死」というのはややもすると忌み嫌われたり避けられたりするものです。しかし、生前どのように生きたかがその人の死に反映され、それが残されたものに引き継がれていくということを私は本書から学びました。
だからこそ、今を大切に生きていきたいと改めて思います。
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