第226回 工夫がもたらす幸せ
冷凍庫に大量の酒粕があり、どのようにして調理しようか考える日々が続いていました。購入時に使ったのはわずかだけで、持て余していたのです。でも今はインターネットでレシピサイトを調べればいろいろと出てきます。早速検索した結果、「抹茶酒粕ケーキ」を作ることにしました。
作る日はあらかじめ決めておいたのですが、その日は仕事疲れで断念。でもせっかく思いついたことですので何とか調理しようと考え直しました。そこで翌日、仕事からの帰宅後に取り掛かることにしたのです。
とは言え、その日の仕事はかなりハードでした。早朝シフトの後、別件の仕事が長時間あり、体力的には「エネルギー放出済み状態」でした。帰路、エキナカにおいしそうなスイーツショップを見つけ、「わざわざ作るよりも、今日の仕事をがんばったご褒美にここで買って帰ろうかなあ」と一瞬思ったほどでした。けれどもそうしてしまえばあの冷凍庫内を占領している酒粕はそのままになってしまいます。お店の前をチラと見るにとどめて家まで戻ってきました。
帰宅後、カバンの中身などを出し、メールチェックも済ませたらいよいよ調理開始です。レシピに書かれた食材や器具などをすべて取り出し、順番通りに測ったり揃えたりし始めました。ここまで来ればあとはひたすら混ぜて型に入れていくだけです。
ボウルを左手で押さえ、右手で材料をへらで混ぜていたときのこと。ガラスボウルの中から漂ってくる酒粕の良い香りに気づきました。それまでは「早く酒粕を処分しなくては」との思いでケーキを作り始めたのですが、混ぜているうちに、香りが人をいかにリラックスさせるかを感じるようになったのです。
そこで私は香りや材料の手触りなどに意識を向けるようにしました。バターに砂糖を混ぜると、ほのかに甘い香りが生じます。また、混ぜたときのずっしり感はへらを通じて私の手に伝わってきます。一方、抹茶を上から振りかけると細かいパウダーがボウルの中に広がっていきます。さらに卵を割り入れると、プリプリした黄身が大きな存在感を見せてくれます。黄身のオレンジ色は実に鮮やかで、私にパワーをくれます。
いよいよ型に入れてオーブンへ入れるころには、「どのように焼きあがるかしら?」とワクワク感でいっぱいになりました。そして40分間、オーブンの回る音を聞いていると、台所からは香ばしい香りが漂ってきたのです。
作り始める前はあれほどハードルが高く思えたことも、こうしてプロセスそのものをじっくりと味わうだけでも幸せを感じられるのですね。これは私にとって大きな発見でした。
デパートの地下街やエキナカのショップへ行けば、自宅で作るよりも美しいスイーツを手軽に入手できます。自分へのご褒美として、見ても食べても味わえる既製品は私たちに喜びを与えてくれます。
けれどもあえてひと手間をかけてその工程を味わい、そこから小さな幸せをひとつずつ手に入れていくことも大切なのではないかと私は思うのです。
これは英語学習も同じです。
既製のテキストやアプリでももちろん勉強できますが、あえて自分で創意工夫して作っていき、その工程を楽しんだ方がトータルで学びそのものに費やす時間が「幸せな時間」になるような気がするのです。
(2015年9月7日)
【今週の一冊】
私の「文庫ブーム」は今も続いている。ポイントは、一冊読み終えたら次を買うというルールだけ。以前の私は気になる本を複数入手し、乱読するタイプであった。しかし、結局購入時の関心が時間とともに薄れてしまい、読破できぬ状態が続いてしまったのである。そうなると本は増えるばかり。これではいけないと思い、最近は一冊読み終えたら次を手に入れるという方法を徹底している。
今回ご紹介する新田次郎氏は、山岳小説をたくさん世に生み出したことで知られている。奥さまは戦後の引き上げ体験を記してベストセラーとなった「流れる星は生きている」の著者・藤原ていさん。一方、数学者の藤原正彦氏はご夫妻の次男にあたる。
新田次郎氏は本名ではなくペンネーム。自身の出身地と次男坊であることからこの名前となった。気象庁に勤めながら作家生活を続けるという二束のわらじ状態であったのだが、原稿の納品に遅れることは一度たりともなかったという。職場に気を遣いつつ、規則正しく執筆活動をすることは並大抵のことではなかったであろう。それでも書くということを生涯続けたのである。
本書は複数のエッセイが掲載されており、どこから読んでも楽しめる。氏のまじめなお人柄がどの文章からもにじみ出ている。また、巻末の藤原てい氏や藤原正彦氏の文章も興味深い。特に日頃、「ご意見番」として世の中をとらえる藤原正彦氏の父親像を読むと、育つ過程で反発したことがあったものの、年齢とともに父親に似てきたという自己分析が伝わってくる。親子というのはどこまでも親子なのであろう。
私にとって一番印象的だったのは、藤原正彦氏の次の文章である。
「父と母の場合も、書き始める際に才能や覚悟については一顧だにしなかったのではないかと思えてくる。」
つまり戦争や敗戦という経験からやむにやまれず文章を書いたというのである。何か物事に取り組む際、自分に才能はあるかなどと悩むのではなく、自分を突き動かす何かがあるかどうか。このことは私たちが仕事をするうえで一つの大きな指針になると私は思っている。
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