INTERPRETATION

第223回 立場を変えて考えてみる

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

暑い毎日が続きますね。私はこれまで夏のどんな暑さにも負けず、冬もカゼをこじらせることなくここまでやってきました。今まで大きな病気もせず、けがにも見舞われず、本当に恵まれた日々を過ごせていることを改めてありがたく思います。丈夫に生んでくれた両親に感謝です。

とは言え、自分の体を過信してもいけないのですよね。先日のこと、家族で都内へ出かけた際、生まれて初めて「熱中症」と思しき状況に見舞われました。それまでピンピンしていたのですが、なぜか急に気持ちが悪くなり、話すことも大儀になってしまったのです。家族には正直に「ゴメン、ちょっと辛いんで今、話しかけないでね」と伝え、そっとしておいてもらいました。幸い歩くことはできましたので、最寄りの地下鉄駅まで向かったのですが、いつもならスタスタ歩ける距離も遠く思えたほど。駅構内のクーラーにありついてようやくホッとしました。

昼食でヘビーなものを食べたのがいけなかったのか、こまめに水分を取っていたもののそれが不十分だったのか、あるいは日頃の寝不足がたたったのかはわかりません。何にしても地下鉄に乗り込み、ようやく元気を取り戻せたのは幸いでした。

そのとき炎天下で日傘をさして向かっていたのは地下鉄・桜田門駅でした。周囲には首相官邸や国会議事堂、皇居に官庁などが並びます。歩きながら目に入ってきたのは、周辺を警備する警視庁の警察官や道路工事をする作業員や誘導員の方たちでした。

そのような方々はこれほどの暑さなのに、辛さを顔に出さず黙々と仕事に従事しています。太陽がギラギラと直接ご本人に照り付けているのに、集中力を持って警備や誘導などにあたっているのです。こうした方たちがいるからこそ、日本は安全なのであり、工事も予定通りに進み、世の中の秩序が保たれている。改めてそう感じました。

社会全体が回っていくためには、誰かが「大変な仕事」を担当しなければなりません。はたから見て「きつい」と思える業務も、誰かしらが携わらなければならないのです。私は日傘を持ち、水の入ったペットボトルを携え、あと少し歩けばクーラーの効いた駅構内に入れるという立場でした。けれどもその一方で、一日中大変な業務をこなしてくださる方々がいるからこそ、私たちはこうして安全やサービスを受けられるのであり、そのことを空気のように、あるいはあたりまえのこととして受け流してしまうのはいけないのではないかと私は考えました。

大変な業務は他にもいろいろあります。雨の日も雪の日も配達・配送をしてくれる郵便局・新聞配達員・宅配会社の方たち。人がぐっすり眠っている間もオープンしていてくれるコンビニのスタッフさん。架線が切断されてもわずか数時間で復旧させたJRの保線担当者の方たちなどなど。「私にはどう頑張ってもできないこと」をやってくださる方が世の中にはたくさんいます。

そうした方々の仕事ぶりを見るにつけ、「もし私が同じ立場にいたら、決してそのような技術力も忍耐力もない」と私は思います。だからこそ、「私一人では決してできないこと」に携わってくださる人たちの労力に改めて感謝したいと思っています。

(2015年8月10日)

【今週の一冊】

「心に灯がつく、人生の話」文藝春秋編、文春文庫、2015年

相変わらずこのところ文庫三昧だ。今までは読みたい本があると、ネット書店ばかり利用していた。しかし文庫本の魅力に取りつかれてからはもっぱらリアル書店通いである。いつも利用する乗換駅構内の書店が目下のお気に入りだ。棚の端から端まで眺めていると、「あ、この間私が買ったのは最後の一冊だったけれど、すぐに入荷したんだ」「へー、文春文庫は毎月20日が発売日なのね」という具合に、書棚やPOPからいろいろなことがわかる。そうした小さな発見も楽しい。

今回ご紹介するのは文藝春秋が各地で行った作家のレクチャーを収めた講演録。松本清張、城山三郎、宮尾登美子、逸見政孝などの名前が文庫のオビには並んでいる。図書館や古書店でも本は読めるけれど、リアル書店で書棚から本を引き出し、オビに書かれている文章も購入時の貴重な情報源となる。最近城山三郎氏の作品を立て続けに読んでいたことや、ガンで惜しくも若くして亡くなられたアナウンサー・逸見政孝氏の文章が特に読みたかったので、迷わず本書を購入した。

話し言葉のままテープを書き起こしたらしく、ページをめくるたびに作者の肉声がそのまま伝わってくるのがこの本の特徴だ。城山三郎氏は企業小説を多く残していることもあり、財界人との接点も生前は多かった。講演ではホンダ創業者である本田宗一郎氏とのエピソードが興味深い。「優れた経営者、金儲けのうまい経営者はいっぱいいます。けれども、節度を心得て、少しでも卑にならないように努めている経営者としては、本田さんを措いて他にない」と述べているのが印象的だった。

松本清張氏は菊池寛について、逆境こそが文学形成の要素になったと述べている。貧しくて本すら買えなかった菊池寛は人から本を借りて暗記したのだそうだ。英語も習得していたとあり、作家への道が閉ざされたならば翻訳で暮らしていこうと考えていたという。

最後に一番印象的だった文章を。

「文字とか文章というやつは、人間の肉体と同じなんです。贅肉はないほうがいい。」(藤本義一)

日ごろから通訳の際、できる限りムダなことばを付け加えないよう心掛けている私にとって、励まされる一文であった。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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