第217回 苦労話のこと
2016年の大統領選に向けて、CNNでも選挙の話題が増えてきました。民主党は今のところヒラリー・クリントン氏を含めて数人の候補者にとどまっています。一方、共和党はすでに10人以上。キャスターたちがa bit crowdedと評するのもわかります。
これまでの選挙を振り返ってみて、感じることがあります。それは候補者たちの演説における「ある共通点」です。他国がどうかはわからないのですが、おおむねアメリカの場合、次のようなストーリーが多いように思います。
*私の両親は貧しかった・労働者階級だった・移民で苦労した
*私も幼少期は大変だった
*でも頑張ったおかげで今の自分がある
つまり、「頑張りさえすればアメリカンドリームはかなうのだ」というメッセージが潜んでいます。
このような話題は多くの人々を勇気づけます。「今、大変な思いをしていても努力さえすれば夢はかなう」ものであり、それがアメリカの偉大さなのだと私も感じます。
しかし大多数の候補者がこのロジックで話すのを聞くと、本当に皆が皆そうなのだろうかと思ってしまいます。そして実際の生い立ちを読んでみると、実は「貧乏」の定義が庶民のものとは異なっていたりもするのです。たとえば、「家の中に現金はなかったものの、実は株取引をしていたので資産家であった」とか、「日頃の生活はつつましくても家屋敷が立派だった」というケースもあります。いずれにせよ、「自分も皆さんと同じ『庶民』です(だから応援してね)」というメッセ―ジが見え隠れするようにも思えるのです。
英語にはnobless oblige(ノブレス・オブリージュ)ということばがあります。これは「恵まれた立場にいる者は、その義務を負わねばならない」という意味です。イギリスなどはいまだに階級制度の名残があるため、「上流階級」が存在します。そのような方たちは自分たちが社会に対して貢献する義務を担っていると感じ、それを行動で示しているのです。
アメリカ大統領選の候補者演説で、「私は恵まれた家に生まれました。だからこそ皆さんに奉仕する義務を感じています。ぜひ選挙で応援をしてください」というメッセージに私は今のところお目にかかったことがありません。「自分はお金持ちだ・持てる者だ」という言動は人々の反感を招くからなのでしょう。けれども私など、「無理して庶民のふりをするよりも、素直に自分が恵まれていることを認めても良いのでは」とつい思ってしまいます。
ところで近年、日本では自己啓発書が大ブームです。書店のビジネスコーナーに行くとそうしたハウツー本があふれています。その多くが読者にたくさんの勇気とやる気を与えてくれるものであることは私も認めます。ただ、内容面では先に述べたような、「自分は庶民です」的な香りを感じてしまうのです。
「私は落ちこぼれだった」「英語ができなかった」「親がお金で苦労した」「ダイエットに失敗してきた」など、本の冒頭が苦労話で占められているように見受けられます。そして本の中盤に差し掛かると、どのような努力を自分がやり遂げたかが具体的に記されており、その結果、成功した今の自分があるという叙述で締めくくられています。読者の多くは「そうか!頑張ればできるんだ!よし、やってみよう!」と励まされるのは確かです。
けれども最近私はこうも思うのです。本当に偉大な人というのは自分の苦労話を積極的に話すことなく、淡々と努力を続け、ひっそりと社会に貢献しているのではないか、と。過去の苦しみを大げさに語ることもなく、その痛みに引きずられることもなく、「今」を懸命に控えめに生きているのではないか、と。
この夏、日本は戦後70年を迎えます。戦争で本当に苦労した人ほど、その痛みを華やかに語ろうとはしません。だからこそ、私たちが意識してそれに耳を傾け、理解し、語り継ぐ必要があると私は考えています。
(2015年6月29日)
【今週の一冊】
“Does Spelling Matter?” Simon Horobin, Oxford University Press, 2014年
私は1990年代初めにオックスフォード大学日本事務所で働いていた。当時はイギリス人上司がオフィスを立ち上げたばかりで、私はその黎明期をお手伝いする機会に恵まれた。もともと私は航空会社に勤めていたのだが、留学への思いが日増しに強くなっていたころだった。海外留学に少しでも近づければと考えて転職したのがこの事務所だったのである。上司一人・私一人という小さなオフィスで私は総務・経理・営業・翻訳・通訳など一通りのことに携わっていった。素晴らしい先生方のお話を伺えたこと、業務を通じて多くを学べたことなど、わずか数年間ではあったが私にとってはかけがえのない経験となっている。
あれからずいぶん年月がたった。先日ふと「そういえば今、事務所はどうなっているのかしら?」と気になり検索してみた。現在は事務所のホームページやフェイスブックまであり、着実に日本での活動を続けているのがわかる。そこでふと見つけたのがレクチャーの案内。その講師を務めたのが、本日ご紹介する書籍の著者、Simon Horobin教授である。
デジタル化が進む昨今、日本語でも英語でも略した書き方というのは大いに見受けられる。ことばは変遷するものであり、シェイクスピアの時代と今の英語を比べれば違いがあるのは明らかだ。よってスペルが変わっていくことにも目くじらを立てることはないのではないか。そんな意見も世の中にはある。その一方で、「いやいや、ことばは大切に守り抜くものだ」というものもあろう。そうした世論にホロビン先生はどのように考えていらっしゃるのだろう。ワクワクしながら私は講演会場に向かった。
レクチャー時間はわずか1時間だったが、スライドを交えた講義は実に興味深く、英語が経てきた変遷や、スペルを巡り著名な作家、政治家がどう関わったかなども知ることができた。中でも興味深かったのは、ジョージ・バーナード・ショーが英語の音とスペルの差異をなくそうと自力で新たなアルファベットを作ったというくだりである。これは初耳だった。一方、ブレア元首相が実はスペルを苦手としており、tomorrowを誤ってつづった書簡が残されていたのも親近感がわいた。
本書をひも解いてみると、手帳術で有名なアメリカのベンジャミン・フランクリンも実はスペリング改革を提唱していたとある。今では「ウェブスター辞典」で有名なノア・ウェブスターはもともと弁護士であったが自分で学校を作り、その後スペリングの教本も書いたのだそうだ。こうした歴史話がふんだんに盛り込まれているのも楽しい。
巻末には本書で取り上げられた単語が索引になっている。「本は1ページ目から読まなければ」という人は多いだろうが、自分が関心を抱いた箇所を拾い読みするだけでも良いと私は思う。なぜならそうすることで読者は自らが探し求める情報を素早く吸収できるからだ。そのような自由さを許してくれるのも本書の特徴と言えるだろう。
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