INTERPRETATION

第215回 あえて不安定を選ぶ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私は「英語」ということばや「通訳」という行為が好きでこの仕事を長年続けてきました。大学卒業後は一般企業に入り、安定収入に福利厚生という恩恵にもあずかりました。しかし今はフリーランスとしてあえて不安定な道を歩んでいます。フリー通訳者の場合、いったん仕事が決まれば必ず約束の日時に現場に向かうという鉄則があります。「ちょっと今日は具合が悪いから、職場に電話をして病気欠勤にしてもらう」という選択肢は存在しません。体調管理も仕事のうちですので、日頃からスタミナを維持できるような体力づくりを心掛け、栄養を意識した食事を摂ることも仕事の一部となっています。また、有給休暇も慶弔休暇もありませんので、仕事をしなければ無収入ということになります。

こと体調に関しては「病気になったらどうしよう?」「声が出なくなったら?」など、心配し始めたらきりがありません。特に声は商売道具です。私もデビュー当初は緊張のあまり、「朝起きたら急に声が出なかった」という夢を見て汗びっしょりで目が覚めることもありました。長年続けてきた仕事ではあるものの、とにかく声だけは注意しようという気持ちで現在に至っています。

たとえば私の場合、大学で朝から夕方まで講義をする日もあります。そのような日の翌日はあえて喉を休ませるよう意識しています。放送通訳や授業前日のおしゃべりのしすぎやカラオケ、大声を出してのスポーツ観戦なども私にとっては控えるべき項目です。

ではここまで何かと制約があり、かつ不安定な今の仕事を大変に思うかと尋ねられれば、私の答えは「ノー」です。自分自身が商売道具ですので、もし体調面で働けなくなったときは、確かに金銭面で困難に直面するかもしれません。実は通訳者デビューして少し経った頃それが不安になり、企業に再就職したこともありました。さんざん悩んだ末に「やはり安定収入こそ大事」と考えてのことでした。けれどもそこでは1か月しか続かなかったのです。

なぜかと言いますと、その仕事がひとえに私には合わなかったからでした。採用していただきながら4週間で飛び出してしまったことは本当に申し訳なかったと思います。けれどもあの再就職のおかげで、私は自分の考えを固めることができたのです。自分が「好き」と思う仕事に携われるのであれば、多少の不便や不自由、不安定はがまんできるのだ、と。

以来、振り返ることなく通訳や指導の仕事を今まで続けています。授業の場合は自分の担当するクラスが決まっていますので、そこは動かすことができません。通訳業務も同じで、いったん仕事の依頼があれば、たとえそれが1年2年先のものであっても最優先されます。仕事ゆえに家族行事に出られなかったり、都合がつかず久々の同窓会を欠席したりということもあります。地元行事のお手伝いをしたい気持ちは山々でも、どうしても仕事を休めないということもありました。

そのような状況に直面するたびに、タイミングの悪さや相手への申し訳なさ、出席できないさみしさなどが頭をよぎります。けれどもこの仕事を選んだのは自分であり、ほかの誰でもありません。「今」というのは「過去」の結果です。今この瞬間に自分が置かれている境遇はほかでもない、自分の選択の末にもたらされたものなのです。

私が敬愛する精神科医・神谷美恵子先生は終戦直後、子育てをしながら仕事を続けました。当時の女性は結婚すれば家庭に入るという時代です。先生はある日、「子どもを犠牲にして外で仕事をしている」と近所の人に批判され、大いに悩みます。そして苦しんだ結果、次の一文を日記に残しています。

「もし今の私の道が使命と信ずるならば正々堂々とやればよい。子供のためには出来るだけの事をする。しかし、出来ないことは『運命』と考えてあきらめ、わびるより仕方がないではないか。その不幸を子供が却って踏み台としてえらくなってくれる様に祈る他ないではないか。」

人間というのは「自分ができなかったこと」や「選ばなかった方の選択肢」を悔やみ、悩むものです。けれども、何をどう頑張ってもどうにもならないことというのは人生においてつきものなのでしょう。そのような状況に直面するたびに、私は神谷先生のことばを思い出しています。

(2015年6月15日)

【今週の一冊】

「海を渡った故郷の味 Flavours Without Borders」認定NPO法人難民支援協会著、ジュリアン、2013年

先週木曜日にはサッカー日本代表が親善試合でイラクと対戦した。私にとってのイラクとは、CNNのニュースで出てくるイメージが強い。ISISが国の一部を制圧し始め、イラク軍やアメリカなどが奪還を試みるも非常に苦戦しているという報道が現地の記者たちから入ってくる。今回来日したサッカー選手たちはどのような思いで日本に来たのだろう。そもそも選手たちの家や家族などは無事なのだろうか?年齢的に見ると、おそらく彼らの大半は物心ついたころから国が戦争状態にあったはずだ。彼らの友人・知人の中にはすべてを失い、難民になったケースも多いのではないだろうか。

今回ご紹介する一冊は、難民として認定されて日本に暮らす人たちが故郷の味を紹介したもの。巻末の地図を見てみるとミャンマーやバングラデシュ、ネパールにイラン、コンゴ民主共和国など、色々なところから日本に逃れてきている人がいる。内戦や貧困など理由はさまざまであろう。

そのような過去を携えつつも、この本で披露されている料理はどれも美しく、その国の文化や慣習が料理の中に込められている。食に国境はない。ニュースや国際情勢に疎遠な人であっても、こうしたレシピを通じて世界の困難な地域に思いを馳せることはできるのではないだろうか。

材料を見てみるとどれも近所のスーパーで調達できるものばかり。しかも英日併記なので料理を通じて英語を学びたい人にも楽しめる構成になっている。私はCNNの放送通訳に入るたびに、その日に取り上げたニュースの国の料理を作るべく、これまでいろいろインターネットで検索してきた。本書を通じてさらにレパートリーを広げられればと思う。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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