INTERPRETATION

第197回 製作者への思い

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

少し前のこと。通訳の仕事や子育てなどで心も体もいっぱいいっぱいの時期がありました。体は常に疲れており、すべてに終わりがないように感じていたのです。心に余裕がなく、幼いわが子たちとの関係にも頭を悩ませていました。

そのとき、ある方に貴重な助言をいただきました。「通訳という仕事は緊張感の連続でしょ?それでは疲労困憊してしまう。おいしいものを食べたり美術館で美しい絵を鑑賞したりするのも仕事のうちよ」と。

考えてみたら、当時の私は仕事と自宅の往復ばかりしていました。保育園に通う子供たちのお迎え時間まで、ものすごい集中力を出して仕事の準備をしていました。一方では家事のことも非常に気になり、掃除も料理も完璧にしなければとの思いにとらわれていたのです。これではくたびれるのも無理ありません。けれども私は自分で自分を追い込んでいたのでした。

幸い自分の中で「手を抜くこと」を何とか心がけられるようになりました。また、それが「敗北」でもなければ「サボリ」でもないのだととらえられるようになったのです。自分で自分の基準をゆるめたのですね。無理なことは潔く認め、周りに助けを仰ぐこともできるようになりました。以前の自分であれば「私さえがんばればなんとかなる」という思いで突き進んでいたのです。

通訳は「ことば」の世界です。一方、「おいしいもの」や「芸術作品」などは自分の感性に訴えるものです。感性というのは日ごろから豊かにしておくと、心が充実してくるように思います。私はそれまでの価値観を改め、仕事後には一人でカフェランチを楽しんだり、上野のミュージアムに足を運んだりと楽しむようになりました。

さて、そうして目の前のものをじっくり味わうようになると、色々なことを考えるようになります。「どうしてこのデザインはこういう形なのだろう?」「なぜここでこの色を使ったのだろう」という具合です。製作者がランダムに用いたことももちろんあるでしょう。けれどももしかしたら背後に何かメッセージが隠されているのではないか。そんな気もするのです。

そのような見方をする習慣ができてくると、身の回りのものすべてが興味の対象となります。たとえば自宅にある歯磨きチューブひとつをとってみても、「この色使いやこのロゴの配置が決まるまで、デザイナーたちはどれぐらいの見本を作ったのだろう」と思います。「数あるフォントの中からあえてこのタイプを選んだのは、消費者にとって見やすいから?」という具合です。

私たちの身の回りにはたくさんのものがあふれています。そして多くのものが使用後に処分されます。食品パッケージやペットボトル、文房具や消耗品など、数をあげればきりがありません。仕事の際にミネラルウォーターを買い、ボトルの形状や成分表、メーカー名やフリーダイヤルの番号までしげしげと見る、という人はおそらくさほどいないように思います。

でもそうしたものをあえて眺めてみると、色々な発見があると私は感じています。「なぜだろう?」「どういう思いで作られたのだろう?」と小さな疑問や製作者への思いまで抱いてみるのも、人生を豊かに生きる上で大切なのではないかと私は考えるのです。

(2015年1月26日)

【今週の一冊】

「詳説日本史図録第6版」詳説日本史図録編集委員会(編集)、山川出版社、2013年

のべ6年に渡る海外生活を経て帰国したとき、私は中学2年生になっていた。地元の中学校に編入したのは2学期に入ってしばらく経った頃。日本語は自宅で話していたので問題なかったが、日本史の知識は皆無だった。そのときの社会の授業は「日本史」。教科書もかなり進んでおり、私が転入後初めて受けた日は「徳川家康」がいきなり出てきたのである。頭の中は「トクガワwho?」状態。年号もさっぱりわからず、安土桃山も鎌倉も平安時代もごちゃごちゃになっていた。お恥ずかしい話、今も日本史には限りなく疎い。

しかしいつまでたっても「帰国子女なので日本史は苦手です~」などと言ってもいられない。そこで頼りになるのが「図解説明」。文章ばかりでは体系的に追うのもハードだが、年表や関連資料が豊富にあれば、視覚的にもすっきりと頭の中に入ってくる。そのような理由から私は自宅に日本史と世界史の図録を置き、必要の際にはすぐに開けるよう、書棚の一番目立つところに並べている。

図録は書店の参考書コーナーに行けばすぐ見つかる。複数の種類があるので、実際に店頭へ出向き、色々と比べてみてから買うことがお気に入りの一冊を見つける近道だと思う。生徒向け書籍の最大の長所は価格がお手頃であること。本書もこの内容充実度にして1000円弱である。

日ごろ放送通訳の仕事をしていると、一国の歴史をさかのぼって学ぶ必要がある。そのような時、「では当時の日本はどんな時代だったのだろう?」と私は感じる。そこで図録を見てみれば、日本と世界の関係も分かり、歴史そのものを大局観的にとらえることができる。「今」を生きる上で過去をしるのは大切なこと。図録はその手助けをしてくれる。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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