第167回 黒子に光を
「はい、じゃ通訳さん、ここまで訳して。」
いきなり振られた私は大いに焦りました。まだ通訳デビューして間もないころのこと。ある会合に出かけた際、ネイティブ話者たちも訪問先の日本側の方々も英語を流暢に話しています。話がどんどん進んでいましたので、「あ、これは通訳なしでも大丈夫だな」と私はとらえ、その場に待機していたのです。突然の通訳命令に心の中では「ええっ?通訳が必要だったなら早く言ってよ~~~(涙)」と思ったのでした。
しかし私にも反省すべき点はあります。「皆が英語を話しているから大丈夫だろう」という「思い込み」が最大のポイントでした。駆け出しだったこともあり、「話の途中で割り込んで通訳するのは失礼なのでは」という遠慮もありました。ただ、振り返ってみると、確かに「流暢に話していた人々」はその中の「大半」であって、「全員」ではありません。部屋の隅の方で黙ったままの日本人の方もいらしたのです。
私はこの時、通訳者としてのあり方を大いに反省しました。そして、当時のように「一見誰もが英語を理解している」と思しき会議の際には、多少ずうずうしく思われたとしても、あえて確認するようにしています。「お話の途中すみませんが、通訳は必要でしょうか?」の一言で済みます。「あ、お願いします」と言われれば適宜通訳に入りますし、「いえ、大丈夫です」と言われれば、貴重な会議時間を無駄にしないためにも私はそのまま待機します。ただし、万が一不明点などが出てきた時のために、話の流れを押さえ、メモはとるようにしています。
当時のあの会合で一番キツイなあと思ったのは、散々話を何十分も進めた後にいきなり振られたことでした。しかも有無を言わさない空気があの言葉を発した方にはあり、私は震え上がってしまったのです。駆け出しで右も左もよく分からなかっただけに、その方の言動に私は怖さと共に反発も抱いてしまいました。それが私の訳出をさらに頼りないものにしたのは否定できません。けれども先方にしてみればプロ通訳者を依頼してその代金を支払っているわけですので、現場入りした通訳者が駆け出しであろうと大ベテランであろうと関係ないのも分かります。
このような具合に私もデビュー当時は数々の失敗をしてきました。そうしたことがあったからこそ、今は自分なりの「通訳像」を描くことができます。それと同時に、自分がこのような「黒子」的な仕事をしているからこそ、日ごろ意識していることもあります。それは「表に出ない人々に配慮をしたい」という思いです。
黒子というのは「いてくれて当然」ととらえられがちです。大々的に業務の評価対象になることは少なく、ありがたい存在だけれども、ファンファーレ付きで表彰するような職業ではないのですよね。
けれども、そうした人々がのびのびと働ける空気を作ることは、作業をスムーズに進める上では不可欠です。発揮できる力が発揮されなければ、それはすべてに影響を及ぼしてしまうからです。
このような思いから、そして私自身が通訳者をしているということもあり、縁の下の力持ちのような立場で仕事をして下さる人たちには感謝をしたいとしみじみ思います。当たり前の存在としてではなく、そのような方々に敬意を表し、尊重し、お礼を伝えることは、世の中が円滑に回っていく上でも必要なのではないか。そう私は思うのです。
(2014年6月9日)
「ネルソン・マンデラ 未来を変える言葉」ネルソン・マンデラ著、長田雅子訳、明石書店、2014年
ロンドンのBBCで放送通訳をしていたころ、マンデラ氏は頻繁に番組に出演していた。対談番組であったり、誕生記念であったり、南アフリカ特集だったりとそのお姿を拝見することが何度もあった。いつも笑みを絶やさず、ゆっくりと穏やかな語り口に私は魅了され、英語での一言一言を分かりやすい日本語に通訳したいという思いで同時通訳に励んだ。
そのマンデラ氏が亡くなったのは昨年12月。壮絶なアパルトヘイトや投獄を経験したマンデラ氏の晩年は穏やかで、ヨハネスブルグの自宅でひっそりと息を引き取っている。
本書はマンデラ氏が各地で行った講演などから抜粋された名言集である。想像を絶するような体験をしたとは思えないぐらい、どの言葉も穏やかで慈愛に満ちている。ほめたたえられるのを好まず、むしろ自分の失敗を正直に語ることで、人間味あふれる氏の性格がどのページからもにじみ出ている。
私はここ数年、放送通訳の仕事に加えて少しずつではあるが「教える仕事」が増えている。学生や受講生たちがどのようにすれば意欲的に学べるかは私にとって大きなテーマだ。マンデラ氏の「自分の良いところを認めてもらうことで、人はやる気になる」という言葉は、指導の場においてもあてはまるだろう。教師は勉強法こそ伝えられるが、代わりに勉強をしてあげることだけはできない。学ぶ者の良いところを常に観察し、褒め、それをきっかけに意欲を持って自力で歩み出す。そんな学習者を輩出したいと私は考えている。
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