第165回 自分の便利と他人の不便
雨の日になると「今日は大変だろうなあ」と思うことがあります。いえ、自分が出社時に濡れるとか、靴の泥はねが気になるとかいうのではありません。雨の日に働く人たちのことです。
自分の日常生活を見回してみると、晴・雨・台風・雪に関わらず仕事をして下さる方々がいます。わが家のマンションの清掃スタッフ、宅配便会社の方々、介護施設の送迎スタッフや駐車場誘導係の方々などです。
あるいは時間帯で見るとどうでしょう?私が出入りしているテレビ局は24時間警備体制が敷かれています。早朝勤務のときでも鉄道会社は電車を動かしてくれます。「通訳に必要なのは体力!」というわけで定期的に私が通うスポーツクラブは、日曜祝日も営業しています。こうしたことはいずれもその背後にたくさんの人々の労働があるのですよね。
そのようなスタッフさんたちにも当然家族があり、お子さんがいて、あるいは要介護のご両親がいるかもしれません。私がありがたくサービスを享受できること、つまり私にとっての「便利」というのは、そうした方々の「不便」の上で成り立っていると言えます。
ロンドンに暮らしていたころ、社会インフラにおいては日本の方が優れているなと感じたことがありました。「今日は電車の運転士が出社していないので運休しま~す」「線路に落ち葉がくっついたので電車が遅れていまーす」といったことを始め、自動販売機に小銭を入れたのに商品が出てこなかったなど、頻繁にありました。イギリスの友人にそのことをこぼすと、「ホント、困るわよね。でも向こうだって努力の気持ちはあるのだし。事情があって休むこともあると思うのよ」と言われたのですね。誰にとっても権利は存在する。その結果をどう周りが受け止めるかも自己責任という考えでした。
日本の場合、多少ガマンをしてでも周囲を優先するというのは今も美徳とされています。それによって本人が肉体的・時間的に犠牲をこうむることもあるでしょう。けれども「きちんとやる」というのが日本全体の空気のように私は感じます。そうなると、あとは当事者である本人がどれだけそうした大変さを「犠牲」と思うのではなく、「奉仕」と感じられるかだと思います。
ちなみに私は放送通訳のシフトが早朝に入ることがかなりあります。家を出るのは夜明け前、ほぼ始発の電車です。子どもたちと朝食を味わったり、「いってらっしゃい」と送り出したりすることはできません。そういえば彼らが幼稚園時代のこと。わが家は共働きなので、幼稚園プラス預かり保育のお世話になっていました。その時のことを子どもたちは時々思い出してはこう言うのですね。「あ~あ、一度でいいから午後2時に幼稚園お迎えに来てほしかったなあ。他のお母さんみたいに。」好きな通訳の仕事に携われることができたのも、子どもたちのおかげなのですが、この言葉を聞くたびに今でも胸が痛みます。ですので朝に子どもたちを送り出すことができないというのも、私の中では葛藤でもあったのです。
しかし、放送通訳や授業は私が非常に好きな仕事です。他に得意なことがない私にとって、多少なりとも社会のお役にたてる数少ない分野なのかもしれません。子どもたちに行ってらっしゃいを言うことはできませんが、帰宅後の夕食の席で「今日はね、こういうニュースがCNNで出てきたよ」「授業でこういう教材を教えてきたよ」と子どもたちには伝えるようにしています。彼らが目の前の世界だけでなく、なるべく広く世の中を見てほしいという願いを込めての上です。
世の中には色々な仕事があり、「自分の便利」が「他人の不便」になっているかもしれません。でも、私から見て「他人の不便」ということも、当の本人がやりがいを感じて生き生きと日々を送り、その幸せが家族や周囲に伝播するのであれば、それはそれで大きな意義を持つと思うのです。
(2014年5月26日)
「自省録」マルクス・アウレーリウス著、神谷美恵子訳、岩波文庫、2007年
以前読んだエッセイスト・松浦弥太郎さんの著作に、「書店では吟味して吟味して1冊だけを買う」といった下りがあった。かつての私は大型書店に行くと、手に取った本はほぼすべてカゴに入れていた。いわゆる「大人買い」である。たくさん本を買って幸せな気分になり、帰宅して袋から出してそのまま積ン読、ということが頻繁にあったのである。
松浦氏の一節を機に、私は本との付き合いを改めることになった。仕事で必要な文献であれば大量に読むが、趣味であれば、一冊をいつくしみながら読み上げる方が良いと最近は感じている。
そのようなこともあり、このところもっぱら古典に回帰している。古典は一見難しい。字も小さいし書かれているのが哲学的なので、自分の頭でよく考えてその文章について行かなければ置いてけぼりにされてしまう。読む方にもエネルギーが必要だ。
でも、集中して味わえるのも古典の良さだと思う。良質の食材をじっくりと味わう、そんな感じである。一読しては古書店に出していた今までの本は、そういう意味ではどちらかと言うと「とりあえず手早くお腹を満たす食事」に近かったかもしれない。
今回ご紹介する「自省録」を初めて読んだのは、20代前半の頃である。精神科医・神谷美恵子先生の本を読んだのを機に、先生の訳した本書を手に取ることとなった。ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスの語ることばはどれも哲学的だが、今私たちが読んでも反省させられるようなことが多い。
「他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな。」
「君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。」
こうしたことばが随所に記されている。自分に与えられた仕事や使命は何か。そのために自分はどのような考え方や態度で臨むべきか。あれこれ悩む暇はない。正しい方向に向かって動くべし。
すでに2000年近く前に、こうしたことが唱えられていたのである。
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