INTERPRETATION

第163回 上司の理念

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私は街頭のラックに置いてあるフリーペーパーが好きで、見つけるたびに一部を頂いています。ご近所の新しいお店やグルメ情報など、参考になる記事がたくさんあるからです。最近ごひいきにしているスイーツ店も、ある冊子に出ていた広告がきっかけとなりました。

みなさんはお店を選ぶ際、どのような基準をお持ちですか?飲食店であれば、やはり「味」がポイントとなるでしょう。ヘアサロンなら仕上がりのスタイルの良さは欠かせません。洋服の場合、センスや価格も気になります。

私ももちろんそうした要素を重視しています。けれども私にとって一番大きいのはスタッフの雰囲気なのですね。具体的には「自分たちの商品やサービスに愛情を抱き、それをお客様に伝えたいという気持ちがあふれているかどうか」です。

先のスイーツ店はまさにそれらが表れているお店でした。ひとつひとつのケーキが美しいのはもちろんのこと、スタッフの方々が朗らかでにこやかなのです。お店のドアを開けて一歩店内に入るだけでホッとします。

スタッフさんがそのような空気を醸し出しているということは、おそらくオーナーであるパティシエさんがそうなのでしょう。トップの雰囲気は全体に広がりますよね。それが商品にも反映されるのだと思います。

スイーツの美しさとお味の良さに感激したわが家は、そのお店にお礼状を出しました。それから数か月後のこと。再び買いに出かけると、何とオーナーさんがわざわざ厨房から出ていらしてご挨拶をしてくださったのです。スイーツ作りというのは細かい作業工程があることは想像できます。その場を離れることでタイミングがずれてしまっては申し訳ないなあと思いつつ、「励みになります」とのお礼にかえって私の方が恐縮してしまいました。

初めてオーナーさんにお会いしたのですが、やはり想像通りでした。スタッフさんが素晴らしいのも、そのパティシエさんの哲学や理念が浸透しているからなのでしょうね。これほど素晴らしいお店をあえて地元でコツコツと続けてくださっていることに、一住民としてありがたく思います。

私は通訳という仕事柄、色々な企業をこれまで訪ねてきましたが、その会社のカラーというのは一歩足を踏み入れただけで何となく分かる気がします。先のスイーツ店のように、上司が仕事に対して理念を持っている企業というのは、それが部下にも伝わっています。そのような現場に通訳者として参加させていただけるのは光栄です。

そうした出会いがあると、「今度はこの会社の商品を買おう」「ぜひここのサービスを利用しよう」という気持ちになりますし、それを周りにも勧めたくなります。小さなきっかけかもしれませんが、応援することで地元が、あるいは日本が少しでも元気になれればと思います。

(2014年5月12日)

【今週の一冊】

「守りたいから、前へ前へ」槙野智章著、幻冬舎、2014年

放送通訳現場で一番苦労するのは正直なところ、スポーツニュースである。私は競技を見るのは好きなのだが、ルールに詳しいわけでもなく、何か特定のスポーツに凝っているわけでもない。応援するチームや選手はと聞かれてもしばし考えてしまうのが現状だ。よってスポーツニュースはいつも同時通訳をしていて緊張する。

とは言え、全く関心がないわけではない。サッカー日本代表の試合がテレビ中継されれば欠かさず観ているし、昨年は浦和レッズとアーセナルの親善試合をスタジアムまで観戦しに出かけた。スポーツ選手のトレーニング法や考え方などは英語学習に通じるので、そうした文章は積極的に読むようにしている。

今回ご紹介する槙野智章選手はサンフレッチェやドイツでのプレーを経て現在は浦和レッズに在籍。この本を入手したきっかけは、確か街頭で手に入れたフリーペーパーに槙野選手のインタビューが出ていたからだと記憶している。「そういえば昨年レッズの試合を見たっけ」という思いがきっかけで購入した。

さほど槙野氏に詳しかったわけではないが、読み進めてみると試合に対する思いやサッカーへの情熱がひしひしと伝わってくる。とりわけ私が共感したのは、「気持ちには引力がある」ということばと、睡眠や食事の大切さである。心と体を健やかに保つことで初めて人間というは良い仕事ができると私は考える。これはスポーツ選手だけでなく、どの業種でも言えることだろう。

もう一つ、槙野選手は大事なことを説いている。それは「仕事とプライベートを分けること」。常に頭の中が仕事モードでは疲弊してしまう。リフレッシュすることにより、仕事の際には前向きな気持ちが湧きあがることが大切だと槙野選手は綴っている。

スポーツと通訳の世界は一見かけ離れている。けれどもどのような職種であれ、学べる点はたくさんあると私は思う。これからもサッカー選手を始め、様々な分野で活躍する選手に注目していきたい。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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