第158回 日本語力と英語力
私は小学校から中学校にかけて、イギリスの学校に通っていました。自宅の近くにあった私立の女子校です。日本に帰国してからも同窓会組織に属しており、同級生や後輩たちの活躍ぶりを会報で読むのが楽しみでした。
私が編入したころは日本人もおらず、確か創設以来初の日本人だったと記憶しています。まだ日本人自体が少ない時代だったのです。その後ポツリポツリと増え、日本に戻ってからは後輩の日本人生徒の名前を目にするようになりました。
今でもそうなのですが、私はどうも「英語で記載された名前のリスト」の中から日本人名を抽出する癖があるようです。おそらく幼少期のイギリス時代に日本恋しさのあまり、新聞のスポーツ面で試合結果欄を眺めては日本人がいないか探していました。今でこそ、大リーグやサッカーで日本人選手が活躍していますが、当時は海外で日本人が戦うというのは体力的にも難しいと思われていたのです。ごくたまにゴルフ大会で順位の下の方に日本人選手の名前を発見したことがあるのですが、その時は本当に嬉しかったのを覚えています。
日本人名探しは、試合結果だけにとどまりませんでした。当時は日本のニュースすら珍しかったので、紙面にすら上がりません。私は現地新聞の国際面や経済・経営面、挙句の果てには訃報や結婚告知欄まで眺めては日本人の名前を探していたほどでした。
そのような習慣が染みついているためか、同窓会報を読むときもまずは日本人の名前を見つけ出そうとしていたようです。そして気づいたのが、毎年必ず掲載されていた、ある日本人女子生徒のAさんでした。おそらくお父様の転勤でイギリスにいたのでしょう。名字から察するに、姉妹で通学していたようです。
そのAさんは毎年成績優秀者名に必ず載っていました。私自身は在学当時、英語ができず運動能力もなく、学校で勝負できたのは音楽と数学ぐらいでした。しかしAさんは英文学や社会などの授業で優秀な成績を収め、表彰されていたのです。しかもピアノも習っていたようで、毎年どんどんピアノ検定の級を上げていくのが分かりました。そして数年後、いよいよ卒業の年、Aさんはイギリスのトップ大学に入学したのです。同じ日本人として、私は若いAさんの活躍をとても誇りに感じました。
それから数年後のことです。通訳翻訳関連の進路相談ということで私はAさんからある日メールで連絡を受けました。初めて届いたメールを開いてみると、しっかりとした時候の挨拶に始まり、突然メールを送ることへのおわび、そして本題へと実に美しい文章に書かれていました。あれほど長く海外に暮らしていたにも関わらず、日本にいる日本人以上に美しい文章を記し、繊細な思いやりにあふれたメールを受け取ったのは私にとって久々のことでした。
おそらくAさんは海外在住であっても日ごろから日本語を大切に思い、たくさんの本を読んでいたのだと思います。それがAさんの日本語力を支え、さらに優秀な成績を収めて大学への進学に結びついたことと私は想像しています。私はその後、Aさんの英文を目にする機会がありましたが、そちらも本当に素晴らしい文章でした。
私たち非英語圏に暮らす者にとって、英語は日常的に周りにあふれているものではありません。その英語力を引き上げるためには大いなる努力を要します。そこで大切になってくるのが母語の力であると私は常々感じます。日本語の力がしっかりとしていれば、英語力もおのずと付いてくるのです。逆を言えば、英語の力は母語を上回ることはできない。そう私は考えています。
(2014年4月7日)
「ことばの哲学 関口存男のこと」池内紀著、青土社、2010年
関口存男先生をご存じだろうか。NHKのドイツ語講座に興味がおありであれば、「関口一郎先生なら知っている」という方がいらっしゃるかもしれない。関口存男先生は一郎先生のお父様である。
1894年生まれの存男先生は両親の意向で陸軍の幼年学校に入れられ、その後士官学校へと進む。しかしその後従事した陸軍の仕事が嫌でたまらなかったという。病気になったのを機に軍を離れ、大学での指導に携わりながらドイツ語の研究を進めた。本書は存男先生の生涯をエッセイスト・池内紀先生が記したものである。
今のように情報や学習グッズがあふれている時代とは異なり、当時は限られた教材を自分なりに工夫するしかなかった。だからこそ関口先生を始め、外国語の専門家たちは必死になって学び、非常に高度な語学力を身に付けていかれたのだと思う。
関口先生は学生たちにこう説いていた。
「第一多読、第二多読、第三多読」
ドイツ語上達には多読あるのみと言い続けたそうだ。
一方、独作文については独文をまず和訳し、忘れたころにその日本語をもとの独文に直すよう指導している。ゼロからドイツ語で作文をするよりも、しっかりした文章をまずは和訳して、日数を置いて戻してみる。先生はこれを「逆文」と名付けていた。
池内氏は大学でドイツ語を教えていた頃、関口先生のテキストを使用していたという。先生の教科書は装丁も地味で定価も昔ながらの値段、中身もぎっしりと書かれており「これほど無愛想な書物はまたとない」と池内氏は綴っている。そして「それ自体が読み手を選別している」とも。
今の時代、誰でも消化吸収できる、まるでやわらかい食べ物のような英語教材が多いように私は思う。関口先生のような、信念の通った噛み応えのある教科書こそ、実は本気で学ぶ者には必要なのではないか。そんな読後感を抱いている。
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