INTERPRETATION

第676回 understudy

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

今からだいぶ前のこと。オペラ関連の通訳を担当しました。上演前の数日間は来日指揮者や歌手たちが特別セッションを日本の学生向けにおこなうというプログラムも組まれていました。共通言語はイタリア語。ただ、日常の細かい意思疎通で英語も使われるとのことで、私に依頼があったのでした。

学生対象の研修では上演作品の一部を取り上げ、日本の若い歌手のみなさんが披露。本場イタリアのプロから指導を受け、見る見る上達する様子が部屋の隅で見ていた私にも伝わってきました。

選ばれた日本の学生は、演目に出てくる歌手の数と同じでした。ソプラノ、テノール、アルトという具合。つまり万が一、本番直前に出演者が急病になった場合、この学生たちは代役として出演することになるのです。そのような事態になればいきなりの大舞台。相当のプレッシャーがあるわけですが、同時にそれは「本人の本格的プロデビュー」を意味します。今、目の前で必死に研修を受けている歌手の卵たちは、学生であると同時にunderstudy(代役)でもあるのですね。

指揮者の世界でもこうしてデビューすることは珍しくありません。病気だけでなく、本人の急なキャンセルなどもあります。私が敬愛する亡きマリス・ヤンソンス氏の日本デビューは、師匠ムラヴィンスキー氏の来日キャンセルが理由でした。演劇の世界では、2013年に急病となった天海祐希さんの代役を宮沢りえさんが務め、大絶賛となりました。つまり、不測の事態に備えてひたすら勉強をし、要請があればすぐに応じるべく準備をしている人が、今、この瞬間もどこかにいるのです。

通訳者デビュー間もない頃、私自身、このunderstudyのように備えるべきか考えさせられたことがあります。依頼された業務は、とある来日著名人の「帯同通訳」。すでに世界的に有名な方であり、多くの本も出版されていました。来日中のセミナーや取材などには他のベテラン通訳者が付くとのこと。私の役目は「日常会話の意思疎通」というものでした。

事前準備として私はこの方の著作を一通り読みました。たとえ日常会話の通訳だけであったとしても、知識ゼロでは失礼にあたるからです。ただ、準備をしながらふと考えてしまいました。

「万が一の万が一で、セミナー通訳者が当日ダウンされてしまったら?」

その場で担当できるのは、もしかしたら私だけになるかもしれないのです。

業務を請け負った当初は「付き人みたいな通訳だから気楽」などと思っていましたが、あのunderstudyの様子を思い出し、そのような呑気な考えではいけないと痛感したのです。

「体力維持も仕事のうち」と言われる通訳界ですので、大先輩方が突然ダウンするなどほぼ無いでしょう。万が一体調不要になれば、当日ではなく早めに新たな通訳者を手配するというのがこの業界です。よって、私の心配は杞憂に終わりそう。でも、こう思ったのです:

「それでも気を抜いてはいけない。understudyと同じぐらい準備をしよう」

この思いは、この仕事を長年続けてきた今なお抱いているものです。

(2025年4月1日)

【今週の一冊】

「おりこうなビル」ウィリアム・ニコルソン著、つばきはらななこ訳、童話館出版、2011年

本を手にして真っ先に確認すること。それは「出版年」です。いつ発行されたのかを知ることで、出版当時の日本の状況などを想像できるからです。今回ご紹介する「おりこうなビル」の発行は2011年。第7刷発行が2017年ですので人気絵本であることが伺えます。

ただ、驚いたのは原書の発行年。なんと1926年とあります。童話館出版は海外の良書を発掘することでも知られていますので、昔に出た本書を見つけ出したのでしょう。そう考えると、とても貴重な一冊ですよね。

本書は、主人公の女の子が親戚のおばさまから招待されて、列車に乗り一人で向かうというもの。林明子著「こんとあき」も小さな女の子が一人で旅をする様子が描かれており、それを彷彿させます。一方、「おりこうなビル」のビルは兵隊の形をした人形。旅支度をしていた主人公のメリーが荷物に入れ忘れてしまい、追いかけていくという内容です。

絵を眺めていると舞台がイギリスであることがわかります。たとえばおばさまが暮らす「ドーバー」という地名やイギリス北部と思しき緩やかな起伏、”THIRD”と書かれた車両(昔の列車には3等車があった)等々です。

著者のニコルソンは「ビロードうさぎ」(マージョリィ・ウィリアムズ文、いしいももこ訳)に絵を提供。日本では酒井駒子さんの画と翻訳「ビロードのうさぎ」(タイトルに「の」が入っています)もあります。読み比べるのも楽しそうですよね。本書を教えて下さったハイキャリア寄稿者・寺田真理子さんに感謝です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者、獨協大学および通訳スクール講師。上智大学卒業。ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2024年米大統領選では大統領討論会、トランプ氏勝利宣言、ハリス氏敗北宣言、トランプ大統領就任式などの同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラム執筆にも従事。

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