第154回 草の根交流
放送通訳の仕事というのはテレビ局が職場です。私が携わっているチャンネルはニュースが24時間流れていますが、その多くに日本語同時通訳が付きます。私たち通訳者はあらかじめ業務シフトの希望を出し、割り当てられた時間帯にスタジオ入りして通訳作業を行います。
私は比較的朝一番のシフトに入ることが多いようです。午前7時に声出しが始まりますので、遅くとも30分前にはテレビ局に到着する必要があります。現在の住まいは都心から離れているため、乗る電車はほとんど始発です。
まだラッシュになっていない時間帯ではありますが、そこそこ人は乗っています。夜勤を終えて始発で帰る人もいるのでしょう。盛り上がった学生たちを見かけることもあります。私が学生のころは「徹夜で遊ぶ」と言っていましたが、今は「オール」というのですね。初めて「オール」と聞いた時にはボートをこぐものを思い描いたほどでした。ことばは生き物だと改めて感じます。
さて、そんな早朝の電車も、毎回乗っていると自分の座る席が決まってきます。私は途中で乗り換えるため、階段近くに止まる車両を選んでいます。冬はドアが開くたびに寒いので、なるべくロングシートの真ん中に座ります。
最寄駅で乗りこむと、すでに座っている人の顔ぶれや座る位置がほぼ同じであることが分かります。「あ、あの人は今日もコンビニのパンを食べている」「必ず資料を読んでいるけれど、仕事の資料かなあ」「テキストを広げている。資格試験かしら」という具合に、あれこれ考えます。
そんなことを考えつついつもの席に座り、電車がお隣の駅に着くと、これまた同じ顔ぶれが車内に入ってきます。私の右側に座る方も毎回同じ。座ると必ず本を取り出して読み始めています。知り合いではないものの、いつもお隣同士。挨拶するほどではないけれど、何となく顔なじみ。そんな状況です。この方はどうやらお隣の国のご出身のようで、日本語ではないことばがその本には書かれています。
私は途中駅で乗り換えるので、もし車内で眠る場合は携帯電話をセットし、握りしめて寝るようにしています。ブルブル音が目覚まし代わりになるのです。朝早いのでぐっすり眠ってしまっても、この携帯電話のおかげで目を覚ますことができます。
しかしある日のこと。私はタイマーの設定を間違えてしまったのです。早朝ですので、乗り過ごしてしまった場合、すぐに折り返しの電車が来るとは限りません。絶対に乗り過ごしてはいけないはずなのに、私はその日、熟睡していました。
その時です。お隣の方が私の肩をトントンとたたき、「着きましたよ」と教えて下さったのです。見上げると確かに乗換駅です。私は大慌てでお礼を言い、車外に出ました。あのとき目が覚めなかったら、大幅に遅刻です。冷や汗が出ました。
次にその電車に乗ったのは数日後でしたが、幸いその方にお礼を改めてお伝えすることができました。以来、朝、車内で顔を合わせると挨拶をするようになっています。でも静かな早朝の車内ですし、お互い本を読んだり睡眠をとったりという貴重な時間です。よって特におしゃべりに発展することはありません。それがまた早朝電車の良いところなのかもしれませんね。
今、我が国と周辺国ではややもすると緊張感が見られています。週刊誌などの報道を見ると、心が暗くなるような文字が目に入ります。けれども今回私はお隣の国の方に助けていただいたおかげで、少なくとも草の根レベルでは良い交流を続けていきたいと改めて思いました。その思いを次の世代にも伝えたいと感じています。
(2014年3月3日)
「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」佐々木健一著、文藝春秋、2014年
このコラムをお読みの皆さんは、どのようなきっかけで本を買っていらっしゃるだろうか?私の場合、書店をぶらりとめぐって出会うこともあるが、割合としては新聞に出ている書評や広告が大きなウェイトを占める。「この本、面白そう!」と思ったらその記事や広告を切り抜き、手帳に挟む。仕事で都内に出かけたときやスポーツクラブのレッスン後などに書店へ入り、お目当ての本を探す次第だ。
今回ご紹介する本との出会いは少しいきさつがある。日経新聞に出ていた辞書の語彙集めに関する本の書評を私は切り抜いていたのだが、その日に限って持参せぬまま出かけてしまったのだ。頭の中に記憶されたキーワードは「男性の著者」「辞書に出てくる言葉を集める」「最近出た本」という3つだけ。せっかく足を運んだ書店だったので買って帰りたい。そこで店員さんに尋ねてみた。
私の話を聞いた女性の店員さんは、「あ~、そういえば先日出ましたよね。ご案内します」と私を棚まで連れて行ってくださった。その時に目の前に出されたのが本書である。
しかし、私が探していたのはこのタイトルではなかった。著者名も記憶と違う。うーん、どうしよう?でも署名に「辞書」とあるので、興味はある。ただし分厚い!350ページ近くの大作だ。一瞬だけ悩んだが思い切って買ったところ、非常に興味深くあっという間に読了したのである。
詳しい内容は本書に譲るが、簡単にまとめると三省堂の国語辞典に携わった見坊豪紀先生と山田忠雄先生の、いわば友情と決別を描いたものである。当初「明解国語辞典」を編纂していた二人は、次第に価値観などを異にするようになり、見坊先生は「三省堂国語辞典」を、山田先生は「新明解国語辞典」を生み出した。「新明解」は20年近く前に赤瀬川原平氏の「新解さんの謎」で有名になった、あの辞書である。
本書の著者である佐々木氏はNHKのプロデューサー。見坊先生と山田先生に焦点を当てたドキュメンタリーは昨年4月に放送され、大きな反響を呼んだ。この本はそれを元にしたものでもある。一冊の辞書がどのようにして出来上がっていくか、例文の選定にはどういう経緯があるのか、辞書の序文に込められている編纂者の思いとはどのようなものかなど、多くの話題が盛り込まれている。
佐々木氏の取材は多岐にわたっており、様々な関係者の証言であふれている。本書を読むと、辞書に対する見方が変わると思う。
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