INTERPRETATION

第660回 ニュートラル

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「通訳者は異文化コミュニケーションにおける仲介人」とよく言われます。ことばの通じない者同士が意思疎通を図るため、通訳者は真ん中に立つ。そして双方がイイタイコトを瞬時に把握し、お互いが理解し合えるように務める。それが仕事です。

そのために必要なのは、「中立であること」。どちらか片側の味方をしてしまえば、話は進みません。たとえば商談通訳。売り込み側から通訳者が雇われたとしても、訪問先の言い分もきちんと通訳する必要があります。もし訪問先にも通訳者がいるのであれば、こちらサイドの内容だけに注力すれば良いでしょうが、たいていは通訳者一人です。双方の話をしっかりと聞いて訳すことが求められます。

放送通訳も同じです。たとえばアメリカ大統領選挙。仮に通訳者自身が候補者の好みを有していたとしても、各候補者の発言はニュートラルに訳さねばなりません。省略したり、声色をいい加減にしたりすることは避けなければいけないのですよね。

ただし、例外もあります。それは「通訳者自身の倫理観と照らし合わせた場合」です。私は通訳者デビュー直後に、以下のような経験をしました。

クライアントさんは英語圏からの訪日者。その方々に帯同して日本企業を訪問するという案件でした。クライアントさんたちはとても人当たりが良く、礼儀正しい方々でした。通訳者への配慮もあり、一緒に移動しているときも素晴らしい心遣いをいただきました。

けれども、実際の通訳内容に私は違和感を覚えたのです。詳細は控えますが、私の心の中にある一種の倫理観と噛み合わない印象を受けました。もちろん、業務ですので契約時間が終わるまではベストを尽くしました。けれども、一日が終わったころには疲労困憊になってしまったのです。

そのとき、私はこう考えました。

「もし、将来このクライアントさんから再度ご依頼を頂いたとしても、丁重にお断りしよう」、と。

単に私の基準が厳しすぎるだけだったのかもしれません。しかし、自分の中のいわばred lineがあったことから、そこは決めることができたのですね。

通訳だけでなく、どのような仕事であれ、こうした状況に直面することはあるかもしれません。そのような際、「自分は仕事に対してどう向き合いたいのか?」が一つの基準になるはずです。

デビュー当時の私は、「もし、同じクライアントさんからのご指名を断ってしまったら、巡り巡って『この通訳者は仕事の選り好みをしている』と思われてしまうかも。となると、仕事にありつけなくなるかもしれない」と思った程でした。でも、幸いなことに、破産することなく(?)今に至っています。

ニュートラルであること。仕事の基準を自分の中で設けておくこと。

これが長続きの秘訣なのかもしれません。

(2024年12月3日)

【今週の一冊】

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」三宅香帆著、集英社新書、2024年

購読している読売新聞で時々見かけていた本書。タイトルに大いに惹かれて気になっていました。確かに昨今の通勤電車を見渡せば、紙新聞はおろか、文庫本を広げている人を見かけることは殆どありません。誰もがスマホを手にしているのです。混雑電車で否が応でも目に入ってくるのは、至近距離の通勤客スマホ画面に映るSNSやゲーム。誰もが疲れているのだろうなあと感じます。

著者の三宅さんは子どものころから読書が大好き。「社会人になればお給料で好きな本が買える」と夢見ていたそうです。しかし現実は残業や食事会・飲み会などで体力消耗。本が読めなくなってしまったことに衝撃を受けます。そこから色々と考えて人生を軌道修正し、会社を辞めて今は文芸評論家として活躍しています。

本書の冒頭で紹介されるのは、あのベストセラー「花束みたいな恋をした」の一シーン。三宅さんはこの作品の中から、「労働と読書」をキーワードに文章を展開します。なぜ働くようになると読書から遠ざかるのかが、本書を読み進めるにつれて解き明かされていきます。

完読して私が感じたこと。それは今の世の中がとにかく「くたびれている」ということでした。三宅氏はそれを、「全身全霊」ですべてに取り組むがゆえに人々は疲労困憊している、と説きます。外部から強制されて全力を尽くしているのではありません。実は私たちの疲労の原因は、私たち自身が「何事も全力で」「全身全霊で」と動いて頑張りすぎるからなのです。

世の中が「全身全霊」を称賛する土壌があるのも日本の特徴です。たとえばその例として258ページに紹介されている以下が印象的でした:

「サラリーマンが徹夜して無理をして資料を仕上げたことを、称揚すること」

「高校球児が恋愛せずに日焼け止めも塗らずに野球したことを、称揚すること」

「アイドルが恋人もつくらず常にファンのことだけを考えて仕事したことを、称揚すること」

確かに頷けます。スポーツ選手の夫人に「内助の功」を期待するのもその一例です。

巻末には「働きながら本を読むコツ」も紹介されています。これを知ると読書のハードルも大いに下がると思います。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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