INTERPRETATION

第657回 怒涛の一週間

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私のお気に入り絵本に「ねこのはなびや」(渡辺有一著、フレーベル館、2001年)があります。「はい つぎ はい つぎ はい はい はい」と声をかけながら、ねこたちが花火を打ち上げていくのです。

まさにこの掛け声さながらの目まぐるしさが、夏以降の通訳業務。他の通訳者たちも異口同音に「今年の秋は前例がないほど忙しい!」と述べています。ご依頼いただけるのはありがたいこと。でも、一つの業務を終えたら、速攻で次の予習が始まります。まさに私自身が「ねこのはなびや」状態でした。

とりわけ慌ただしかったのが先週1週間。そう、米大統領選の投開票があったのです。これまでも何度か大統領選の通訳業務を仰せつかってきたのですが、今年の選挙はギリギリまでトランプ候補・ハリス候補が拮抗しており、予想がつきませんでした。

大統領選投開票日は日本時間の11月6日水曜日。勝利宣言を某民放局で担当するため、午前10時に局入りしました。時差がありますので、アメリカは前日5日火曜日の夜です。勝敗が早く決まれば、どちらかの候補者がすぐに勝利宣言をするでしょう。当初は互角の戦いと言われていましたが、現地から送られてくるモニターやネットでチェックすると、「当選に必要な選挙人団270票」に近づいているのはトランプ氏。となると、日本時間の夕方までにもトランプ氏が勝利宣言をする可能性が出てきたのです。

現地からの情報筋によれば、夕方にも勝利演説が出そうとのこと。スタンバイしていたもう一人の通訳者と共に、その瞬間に備えました。そして、16時20分過ぎにトランプ氏が登場。「トランプ氏のことだから数時間演説するかも?」と思いましたが、正味30分ほどで勝利宣言は終わりました。

業務契約時間19時まで念のため局に残り、その後、電車で帰宅。いつものことではあるのですが、通訳をするとアドレナリンが上がってしまい、なかなか脳がクールダウンできません。しかも翌木曜日も同じ局で通訳のご依頼を頂いており、タクシーが午前4時に来る予定でした。入浴してストレッチをしたりするも、目がさえて寝付けず。昭和の歌姫・中森明菜さんの「禁区」の歌詞に、

「♪戻りたい 戻れない 気持ちうらはら」

があるのですが、私の頭の中はなぜか、

「♪眠りたい 眠れない 気持ちうらはら」

という替え歌ばかりが鳴り響いていました。それでも何とかウトウトできてタクシーにも間に合い、再び局入り。ハリス氏の敗北宣言は局に到着して1時間後のことでした。あまり眠れていなかったにも関わらず、不思議なものでいざ同時通訳が始まると、またもやアドレナリンMAX状態に。これもこの仕事がなせるわざなのでしょう。

ハリス氏演説の契約時間は午前8時まで。その後、いつものCNNシフトが入っていましたので、移動して13時まで通訳。晴れて木曜日午後には自由の身となったのでした。

帰宅後、しばらくの間は放心状態であったことは言うまでもありません。でも、歴史の瞬間に立ち会う機会を頂戴できたことは、私にとって本当にありがたいことであると感謝の気持ちでいっぱいです。ご依頼いただいた局やエージェントの方々、そしてご一緒させて頂いた通訳者の方々のおかげで、何とか無事、終えたことに安どしています。

・・・そしてもちろん、今回も「あの単語、もっと工夫して訳したかったなあ」という反省点も多数ありました!なので、いつもながら次に向けての勉強は続きます。

(2024年11月12日)

【今週の一冊】

「精神障害のある人の権利Q&A」DPI日本会議、大阪精神医療人権センター(編集)、解放出版社、2021年

障害と一言で述べても色々な種類があります。身体的、知的、発達障害などなどです。一方、今回ご紹介するテーマは「精神障害」。統合失調症や依存症などが含まれます。厚労省によると、およそ100人に一人弱が罹患しますが、その原因はわかっていないとのことです。

なぜ今回この本を手に取ったのか。それは私の通訳業務に直結したからでした。過日担当したシンポジウムが、日本の精神科医療についてだったのです。2006年に国連は障害者権利条約を採択し、日本では2014年から効力が発生しました。しかし、国連のこの条約に照らし合わせてみると、日本の精神科医療には問題が山積しているのです。数年前に相模原で起きた痛ましい事件などは記憶に新しいことと思います。

本書には強制入院を経験した患者さんを始め、たくさんの体験談が紹介されています。それらが人権面でいかに多くの課題となっているかがわかります。Q&A形式で書かれており、関心のある個所から読むことができ、解説も平易に書かれているのが特徴です。

私が学生時代に読み、大いに影響を受けた精神科医の神谷美恵子先生は、ハンセン病患者の精神科治療を長年続けておられました。戦後間もない頃は、ハンセン病への偏見もまだ根強かったのですが、そのような中、先生は常に患者を思い、優しいまなざしを向けておられました。

あれから数十年経った今なお、日本の精神科医療は多くの課題を抱えています。その現状を知る上でもぜひ一読したい一冊です。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END