INTERPRETATION

第655回 商売道具

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳者にとっての商売道具、と言えば色々と思い浮かびますよね。私がデビュー当時は何と言っても「紙辞書」。あの重たい辞書を何冊も持ち歩いたものでした。学生時代に使っていた英語学習者向け辞書では通訳現場だとおぼつかないため、「リーダーズ英和辞典」は必携。さらに専門分野の会議ともなれば、そちらの英和・和英辞典も持参しました。

そしてもちろん必要なのがメモ取り用のノートと筆記用具。ノートはメモを大量にとるため、高級大学ノートなどよりも、いわゆる「雑記帳」の方が惜しみなく使えます。100均で売っている子ども向けお絵かき帳がまさに最適。でも可愛いうさちゃんイラスト表紙を通訳現場で広げるには多少引け目もあったのですが。

このような基礎的必需品も、今では電子辞書やPCのお陰で大いに進化しています。

さて、もう一つ忘れてはならないのがあります。それは通訳者自身の「身体」。こちらも立派な商売道具です。特に耳と喉を酷使するのですよね。特に同時通訳の場合、耳で聞きながら脳みそをフル稼働させて訳語を考え、瞬時に声に発していく作業が繰り返されます。座ったままの仕事なのになぜか体力はアスリート並みの強靭さが求められます。私はこの仕事を「着席型アスリート」と言っています。

よって「身体」をどうケアしていくかは、通訳者にとって大事なことでもあるのです。

かつての私はマッサージや鍼灸院に出かけることが、体のメンテナンスと思っていました。今でもその効果は大きいと、もちろん感じています。しかし、「もっと自力でできることがあるのでは?」と最近思うようになり、試行錯誤しているのですね。

幸い動画サイトにはマッサージやストレッチ、ヨガなどのコンテンツが充実しています。長さも色々とあり、空き時間に取り組めます。様々な動画に取り組むうちにお気に入りのYou Tuberさんも見つかったおかげで、今では「隙あらば自宅メンテ」になっています。要はこまめに体を動かすことが最大の疲労回復なのです。

もう1点、意識していること。それは耳と脳を休ませること。通訳者はマルチタスクを仕事で行っているため、脳はかなり疲労します。意識的に脳を空っぽにしないと神経が過敏なままでいることになるのです。そこで最近私は移動中や自宅にいる時、「あえて情報を取り入れないこと」を心がけるようになりました。具体的には、スマホは見ない、メールチェックは自宅で時間を決めて行う、移動中は音楽も聴かない、という具合です。

その代わり、車窓の景色や車内の中づり広告を見たり、周りの様子を観察したりしています。今は秋ですので、キンモクセイの香りも心地よく、紅葉も見られはじめ、道路にはドングリが落ちていたりします。まさに「今、ここ」を目いっぱい味わうことで、自らの「商売道具」を休ませたいと思っているのです。

先日、本を読んでいたところ、これこそが「マインドフルネス」であると知りました。過去でも未来でもない、「今」を生きること。このようにして心と体を休ませ、次への良き仕事につなげられたらと思います。

(2024年10月22日)

【今週の一冊】

「思量と願いー精神医学の風景」神庭重信著、九州大学出版会、2019年

直近で精神医学関連の通訳業務が控えていたこともあって手に取った一冊。著者のことは存じ上げない中、図書館の検索で「精神医学」と入力して見つけた書籍です。

神庭重信氏はうつ病を始めとする精神疾患の研究や治療に携わってきました。本書には学術的な研究関連の文章もありますが、後半にはエッセイも掲載されており、読み易くなっています。いくつか心に響いた箇所がありましたので、引用します:

「成功が人生のゴールでないように、挫折は人生の終わりではない」(p47)

「(うつ病の患者さんの治療には)到達可能な目標を立て、段階的にできることを増やしていく」「到達できなければできないで、挑戦したことを評価する」(p48)

「精神科医にとって、無駄な人生経験というものはない」(p88)

「精神科医とは一生をかけてなっていく職業である」(p258)

これらの言葉は、医学や病に限らず、人生そのものに当てはまると私はとらえています。通訳の仕事と医学は異なる分野ですが、無駄な人生経験がないことや、一生かけて追求していくという意味で、私は自分の仕事と照らし合わせながら読みました。

ちなみに一番嬉しかったのは、私が敬愛する精神科医・神谷美恵子先生についての言及があったことです。先生の思想が、本書を通じてさらに読者へと伝わっていくことは喜ばしい限りです。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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