第654回 「せい」と「おかげ」は表裏一体
通訳の仕事も今や実に便利になりました。私がデビューしたころはインターネットもパソコンもなかった時代。大きなカバンに複数の分厚い辞書を入れ、大量の紙資料を抱えて現場に行ったものでした。リュックで現場に行くのは憚られる時代でしたので、ビジネスバッグ風のトートバッグをもっぱら使っていましたね。でも、重量ですぐにダメになります。カバンを頻繁に取り換えていました。
それが、電子辞書登場のおかげでダンベル級の紙辞書から解放され、やがてネット辞書の時代へ。資料も電子媒体で到着します。あらかじめ翻訳をして準備をするのも、大いに時短となりました。
しかし、その一方で弊害もあります。
ネットと接続できるのは確かに便利ですが、気が散る要素もあるのです。たとえば通訳準備に行き詰った時など、いつも以上にメールやLINEをチェックしてしまいます。調べものと称しつつ、関係のないページを眺めて時間がたつこともあります。気が滅入るニュースを目にしてしまい、やる気が余計下がることも少なくありません。
さて、ずいぶん前のこと。知り合いと「昭和時代の通訳スクール」の話で盛り上がりました。私もその友人も、当時のスクール経験があります。あの頃はとにかく先生が絶対的存在であり、教室の中はいつもピリピリしていました。プラスに作用する緊張感なら良いのですが、あの時代というのは、ややもすると先生側からの威圧感が半端なかったのですね。先生の表情は能面のよう。笑顔も少なく、ほめるなど滅多になし。それどころか、受講生の弱点をズバズバ指摘してくるような授業になぜか私は当たることが多かったのです。
私自身は昭和世代なのですが、あのような指導法には一向になじめませんでした。幼少期に暮らしたイギリスの学校も確かに先生は厳しかったですが、理不尽な怖さではなかったのです。イングリッシュ・ユーモアを交えながら、でも適度な緊張感のあるクラスでした。ですので、日本の学校が、しかも、お金を払って通っている社会人を相手にするような学びの場が、そのような行き過ぎた「長幼の序」を絶対視していることが、私には解せませんでした。
知人と当時の教室風景を振り返りながら、「あのような指導法のせいで、萎縮しちゃったよねえ」と述べることしきり。でもそのあと私は知人にこう言われたのです:
「でも、そのおかげであなたは今、受講生ファーストの授業を心がけているのでしょ?」
さらりと述べられたこの一言に私はハッとしました。そうなのです。「教え子が萎縮して実力を発揮できなくなるような授業は絶対にしたくない!」と私はずっと思いながら続けてきました。知人の「そのおかげで」という一言に改めて気づかされたのですね。
「せい」と「おかげ」は表裏一体。マイナスの出来事も、プラスに転じます。谷底の時は上が見えなくなりますが、トンネルの先には必ず出口がある。焦らず、そのかすかな光を希望にしながら生きていくのが良いのでしょうね。
(2024年10月15日)
【今週の一冊】
「スターリンの図書室:独裁者または読書家の横顔」(ジェフリー・ロバーツ著、松島芳彦翻訳、白水社、2023年)
数年前に映画「スターリンの葬送協奏曲」という映画を観ました。独裁者スターリンがテーマではあるものの、コメディとあり、予告編も何となく楽しそう。しかも私の好きな英俳優マイケル・ペイリンが出ています。早速映画館に足を運んでみました。
しかし!高校時代に山川世界史教科書でスターリンについて学んではいたものの、詳細は忘却の彼方。時代背景や当時の世界情勢などの知識がバラバラだったため、作品への理解も中途半端に終わってしまったのです。もう少し勉強してから観ればよかったと悔みました。
今回ご紹介するのは、そのスターリンがどのような本を読んできたかを綿密に研究した一冊です。その分量たるや450ページ!ハードカバーで物凄い厚さです。著者のロバーツ氏はアイルランドの歴史家・伝記作家であり、スターリンの人となりを「書籍」の観点から分析しています。実に読みごたえがありました。
スターリンは独裁者として知られていますが、本書を紐解くと多読家であり勉強家であったことがわかります。しかも書籍テーマも多様。書物を通じて多くのことを考えていたのでしょう。
「図書館から借りた本に堂々と書き込みをして、しかも返却すらしなかった」といったことや、「ふん、くだらん」とロシア語で余白に書いていたなどのエピソードを読むと、人間・スターリン像が見えてきます。
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