INTERPRETATION

第653回 決める。ただそれだけ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

1998年にロンドンのBBCで放送通訳の仕事を始めてから、ずいぶんと年月が経ちました。現在はCNNをメインとしながら、民放でも会見や演説、討論会などの同通に携わることがあります。いずれも英語のニュースですので、訳出方向は英語から日本語です。

中学高校時代の私は「将来、ジャーナリストになりたい」という夢を抱いていましたので、紆余曲折を経てメディアの仕事に関わるようになれたのは、本当に多くのご縁とタイミングと相性のお陰だと感謝しています。今でも放送通訳は個人的に一番やりがいを感じる分野であり、リアルタイムで刻一刻と変わるニュースを知ることができるのは、私にとって生きがいとなっています。

ただ、フリーランスで働いていますので、それ以外の通訳業務にも携わっています。会議やセミナーなどの通訳です。その場合、訳出方向は英日および日英両方です。となると、日英同時通訳の訓練は自分で行わなければなりません。

かつての私は内心、「できれば日英は避けたい」という思いを抱いていました。何しろ英語は私にとっての第二言語です。母語のように話せるわけがありません。しかも普段の生活は日本語がメインです。

放送通訳の割合がかなり多かった随分前、久しぶりに受けた日英の同時通訳が私にとって惨憺たる出来に終わったことがありました。自分なりに予習をしていったつもりでした。そのテーマ自体はしっかり勉強したつもりです。でも、悲しいかな、日英のアウトプットトレーニング、すなわち瞬発力としての日英同通がさび付いていたのです。その日の帰路は足取りも重く、「もう会議通訳は無理かもしれない」と思い悩みました。

そして数日後、意を決してエージェントに連絡したのです。

「私のメインはニュースの放送通訳です。正直なところ、日英は得手ではありません。できれば英日一方通行のお仕事であればお受けしやすいと思います。」

こう伝えました。

自分の実力の無さを伝える恥ずかしさはもちろん、これほど長く「通訳者」という仕事を続けながら、非力を言わねばならない自分に落ち込みました。でも、そのエージェントは私の状況に寄り添ってくださり、なるべく英日の業務をアサインして下さるようになったのです。

けれどもその後、なぜか日英同通をそのエージェントから頼まれることが増えていきました。理由は不明です。業界が忙しくなったからか、あるいは、私のあの発言が甘えであったことを見透かして(?)、叱咤激励の意味で割り当てるようになったのかもしれません。

何にしても依頼された以上、あとはとにかく必死に取り組むしかないのですよね。四の五の言わず、言い訳を口にせず、日英のトレーニングを自分でコツコツと積み重ねるだけです。通訳はマラソンと同じ。いきなりフルマラソンを走れないのと同様、一気に日英同通ができるわけでもありません。毎日毎日、音読やシャドーイングをすること、日本語を英語に訳してみること。その繰り返しです。「苦手だなあ」と思っていたかつての私は、その「地道な努力」から逃げていただけだったのです。

通訳の仕事に「完璧」という言葉はありません。予習→本番→反省、これをただただ継続していく。自分の実力を上げるのは、他でもない自分です。あとは決めるだけ、そして動くだけなのです。

(2024年10月8日)

【今週の一冊】

「赤レンガ近代建築-歴史を彩ったレンガに出会う旅」(佐藤啓子著、青幻舎、2009年)

とにかく昔から赤レンガ建築が好きなので、迷わず選んだのが今回ご紹介する一冊。奥付を見ると出版社の青幻舎は京都を拠点としているようです。地方出版社ががんばっておられるようすを想像するだけで嬉しくなります。

本書に紹介されている赤レンガ建築。実は日本全国にかなり残されていることがわかります。今まで旅先で出会った建物も多数。中でも私のお気に入りは京都の同志社大学キャンパスで、卒業生でもある私の友人にわざわざ案内してもらったほどでした。そちらも詳しく紹介されています。ちなみに私のこれまでの京都旅は、神社仏閣よりももっぱら赤レンガ・レトロ建築がメインです。

今回私が一番魅了されたのが、東京海洋大学の観測台です。元・商船大学のキャンパスには精密機械を守るレンガ建築があります。ドーム型で、そこには昔、東洋一の天体望遠鏡があったそうです。しかも使われているレンガはイギリスからの直輸入品。当時としては非常にレアでした。

巻末には索引もあり、各ページには所在地、竣工年、設計者の名前も出ています。コンパクトサイズなので、旅のお供にもピッタリです。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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