INTERPRETATION

第652回 お客様になってみる

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

人生初のアルバイトは大学入学直前。近所のファーストフード店でした。「いらっしゃいませ~」「ご一緒にポテトはいかがですか~?」など唱えていましたね。もっとも、中学時代の先生が来店されたときはビックリしましたが(いえ、先生の方がもっと驚いておられました!)。

初バイト以来、学生時代の私は本当に色々な場所で働きました。スーパー、デパート、お弁当店、家庭教師などです。ただ、当時人気だった塾講師はしませんでした。何しろ当時は「人前で話すこと」が私にとってキョーフだったからです。のちに指導の仕事をするようになったとき、「やはり学生時代に塾でバイトすれば良かった」と激しく後悔したほどです。

さて、色々な職種を経験した最大のメリットは、サービス提供者と受け手(つまりお客様)の両方の心理を覗くことができたこと。多種多様なお客様に販売員としてどう対処すべきかも臨機応変に考えねばなりませんでしたし、一方で、「自分がお客様であれば、こういうサービスが欲しい」という気持ちもわかりました。

その後、通訳者を目指し始めた際も、この両者の視点を大切にしようと思うようになりました。まだ通訳スクールで学んでいた頃、私は首都圏の展示会場をせっせと訪れ、「同時通訳付きセミナー」に参加したのです。目的は「プロの通訳パフォーマンスを聞くこと」。探せば無料セミナーが結構あるのですよね。横浜のみなとみらいや東京ビッグサイト、幕張メッセなどに通い詰めました。

中でも感銘を受けたのが、某実業家の来日講演です。ご本人はステージ上で一切原稿を使わず、自由に発言しておられました。一方、同時通訳の日本語は実になめらか。しかもよーく聞いてみると、実業家の方が話す内容より少し前に、その話題が日本語訳になっているのです。

そう、この通訳者さんは相当予習をしておられたのですね。登壇者のあらゆる情報を事前に仕入れ、著作もすべて読破して頭に叩き込んでいらしたはず。だからこそ、ご本人が言おうとしていることを予測できたのです。「通訳業務は予習がすべて」ということに私は気づかされました。

通訳という仕事には「絶対的評価基準」がありません。数学の計算問題のように一律で正解・不正解を決められないのです。100人の通訳者がいれば100通りの訳し方があります。

お客様として聞く場合、訳の正確さはもちろん大事です。しかしそれと同じぐらい、訳出のスピードや「間(ま)」、声の抑揚なども聞き手の理解力につながります。すべての情報をくまなく拾うのは大切ではあるものの、訳が猛スピードになってしまえば、聞き手はその内容をしっかり頭の中で解釈するのが難しくなります。文字通り、右から左に内容が抜け去ってしまうのです。

通訳者になって久しいですが、自分のパフォーマンスを聞き直したり、他の通訳者のアウトプットに耳を傾けたりすることが、自身の通訳品質を客観的に把握する上で大事になってきます。通訳者自身が「お客様」になることは、大きな気づきにつながるのです。

だからこそ、予習、本番、反省のサイクルは大事なのですよね。

(2024年10月1日)

【今週の一冊】

「ベンジーのもうふ」マイラ・ベリー・ブラウン文、ドロシー・マリノ絵、まさきるりこ訳、あすなろ書房、2010年

スヌーピーの仲間にライナスというキャラクターがいるのはみなさんご存じだと思います。そのライナスはいつも毛布を手にして、片時も離しません。ライナスにとっては安心アイテムなのですね。これを英語でLinus blanketまたはsecurity blanketと表現します。心理学用語では「ブランケット症候群」と言います。

主人公のベンジーは、いつでもどこでもお気に入りの毛布と一緒。公園に行っても床屋さんで髪を切ってもらっている時でも必ず手にしています。お父さんやお兄さん、近所の女の子がベンジーの毛布について「進言」しても、ベンジーはマイペースです。

その後、どのようないきさつを経てベンジーが成長していくかは本文に譲りますが、私にとって印象的だったのは、ベンジーの心優しいお母さん。ベンジーのペースを尊重し、温かいまなざしで見守っています。気ぜわしい現代に生きる私たちにとって、ベンジーのお母さんのような寄り添いの心は大切なのですよね。

奥付を見るとアメリカでの初版は1962年。よって、絵のデザインが少しレトロな印象です。一方、邦訳が出たのは2010年ですので、名作が長い年月を経て発掘されたのでしょう。オレンジ色を基調にした一冊を読み終えると、心が温かくなります。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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