INTERPRETATION

第641回 モヤモヤ、どうする?

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳者は事前に業務内容をエージェントから通知され、その時点で「業務当日に向けて準備スタート!」となります。いくらその日が遠い先でも、それこそ1年後であったとしても、私たちのアタマの中には「〇月✖日  同時通訳業務 テーマは◎※▼◆」という予定がインプットされるのですよね。直近の仕事が他にあったとしても、潜在意識の中では「件の業務に向けて勉強をしなければ」というマインドになっていきます。

ちなみに通訳学校では学期初めに学習日程表を配ります。そこには教材タイトル・分野が記載されており、受講生はなるべく数回先のトピックを意識しながら日々の勉強に励むことになります。つまり、通訳業というのは「目の前の勉強」+「未来の勉強」がセットとなるわけです。

順当に準備をしていれば、並行しながらの勉強には慣れてきます。しかし悲しいかな、私の場合そこまで自己を律して同時進行学習ができているとは言えません。目の前の業務や授業準備でアップアップとなっているのが実情なのです。「あの通訳案件はまだ1か月後だから大丈夫」という悪魔の囁きのせいで、準備も先延ばしになってしまいます。そして直前になって大慌てする、となるのです。

随分前に以下のようなことがありました。

自分なりに同時並行で準備をしていたものの、やはり件の業務準備が手薄のまま当日を迎えてしまったのです。今一つの準備になってしまった理由のひとつが、事前資料がなかったこと。コーディネーターの方も精一杯がんばってクライアントさんに資料請求をしてくださっていました。しかし、入手が叶わなかったのですね。

そして迎えた当日。やはり「資料は無し」とのことでした。

しかし!!セミナーが始まり、いざふたを開けてみたら登壇者は大量のスライドを用いながらマシンガントーク。私の手元は資料ゼロ。同通ブースから遠く離れた会場のスクリーン(しかも投影されている文字やグラフは小文字!!)をにらみながら通訳をしたのでした。

こうしたケース、実は「通訳業あるある」だったりします。

私なりにベストは尽くすのですが、やはり業務終了後は不完全燃焼となります。「あの資料さえ前日に頂けていたら」「当日あの現場ででも良いから手元に渡されていたら」というモヤモヤ状態に陥るのです。

一方で、「通訳者にとって必要なのは幅広い知識」とよく言われます。その理由は、このようなケースのときでも通訳者の知識・一般教養を総動員すれば何とか対処できることもあるからです。よって、知識がゼロの場合、上記のような状況では限りなく通訳は難しくなります。

さて、こうした心境のまま会場を後にし、私は家路につくわけですが、心の中は非常に複雑になります。ピアニストにたとえるなら、「必死に暗譜をしてオーケストラとの共演舞台に立ったのに、オケがメロディを奏で始めたら全く違う楽曲だった」という感じでしょう。あるいは陸上競技選手であれば、短距離レースに出場するつもりだったのに、レース会場で立たされたのがフルマラソンのコース、という状況かもしれません。

では、業務後のこのモヤモヤをどうするか?

私の場合、「仕事のモヤモヤ」は「次の仕事で払拭する」と決めています。終わったことを悔やんでも仕方ないのです。自分のアウトプットが今一つだったと主観的に感じたとて、時計の針を巻き戻すことはできません。今、この瞬間にできるのは、将来の業務に向けてさらなる知識のインプットと通訳訓練を自らに課すだけなのですよね。

ストイックに聞こえるかもしれません。でも、その積み重ねをスリリングととらえ、「好奇心を満たしてくれるのが通訳業」と思えるなら、この仕事ほど人生に喜びをもたらしてくれるものはないと私は感じています。

(2024年7月9日)

【今週の一冊】

“Interwar: British Architecture 1919-39” (Gavin Stamp著、Profile Books発行、2024年)

「英語を学んでいて良かった」と思えることが、私の場合、頻繁にあります。仕事に役立っているということ以上に、日常生活で助かったことが何度もあるのですね。たとえば数年前、お腹の上部に妙なしこりを発見したことがありました。すわ、悪性腫瘍かと大いに心配になった際、ネットで検索したところオーストラリアの医師の学術論文を発見。まさに私の症状と同じでした。論文を読んでみたところ、それは良性の脂肪の塊とのこと。後日、病院で同様の診断結果を確認できて大いに安堵したのでした。英語のおかげで、不要な心配をせずに済み、ありがたかったです。

今回ご紹介する一冊も、偶然発見したもの。私はイギリスの時事週刊誌”The Spectator”が好きで、図書館から借りて読んでいます。その書評欄に紹介されていたのが本書です。第一次世界大戦と第二次大戦の間に建てられたイギリスの建築が網羅されています。

幼少期や留学・BBC勤務中に何度も目にしたロンドンの数々の建物を始め、地方都市や植民地インドの建造物も紹介されています。中でも私のお気に入りはロンドンのテムズ川沿いにあるBattersea Power Stationという発電所。20世紀初頭に建てられ、4本の白い煙突が象徴的です。しかし、1983年に発電が停止し、以来廃墟に。チャゲ&飛鳥の「GUYS」のMVロケ地にもなりました。長らく荒れ放題でしたが、ようやく最近になり再開発が完了。今ではSCおよび高級マンション、オフィスになっています。

600ページ近い大著ですが、索引が充実しており、写真も豊富。読み易い体裁です。めくるだけでもイギリスの建築に親しめる一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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